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涅槃だんご

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今年の東雲寺の涅槃団子は鮮やかにできました。



2020.02.16 Sunday 09:41
東雲寺あれこれ comments(0)
涅槃だんご

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  午後1時半からの涅槃会法要に向け、2月15日午前8時30分から涅槃だんごを作りました。



2020.02.15 Saturday 17:56
東雲寺あれこれ comments(0)
涅槃会

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   2月15日午後1時半から梅花講の皆さんと涅槃会法要を修行しました。

 上香普同三拝、般若心経、三宝御和讃、涅槃御和讃、涅槃御詠歌、回向、普同三拝、法話。

 その後、涅槃だんごを頂戴しました。



2020.02.15 Saturday 15:27
東雲寺あれこれ comments(0)
境内の紅梅が見ごろです



2020.02.05 Wednesday 18:17
東雲寺あれこれ comments(0)
杉山神社の節分「豆まき」 

 

2月3日、成瀬杉山神社の豆まき、13時と15時の二回行われました。

神社の役員さん、年男や年女の代表の方たち、地域の役員、来賓が豆まきをされました。

 



2020.02.03 Monday 15:05
成瀬あれこれ comments(0)
東雲寺で仏前結婚式を行いました

 

2月1日、K君とTさんの仏前結婚式を行いました。

東雲寺住職が式師を勤め、新郎新婦にお寿珠を差し上げました。

お二人のさらなるお幸せとご健康ご活躍をお祈りしました。



2020.02.02 Sunday 21:35
東雲寺あれこれ comments(0)
境内の紅梅の朝と昼

朝8時過ぎの紅梅の写真です。

 

陽が高くなって、同じ紅梅を撮影しました。

 



2020.01.30 Thursday 21:33
住職雑感 comments(0)
紅梅

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1月29日、春を思わせるような陽気の中で、東雲寺境内の紅梅が咲き始めました。



2020.01.29 Wednesday 22:11
住職雑感 comments(0)
スッタニパータを読む

 東雲寺仏教講座で原始仏典『スッタニパータ』を読んでいます。 

 

 仏教講座のテキストのひとつに加えた渡辺照宏著作集第五巻『仏教聖典 一』(筑摩書房、1982年)の「スッタニパータ」の解題を以下に紹介します。

 

 南方仏教のパーリ語聖典を猯Л甅犒亅甅猩性 の三大部門に分けるうち、第二の犒亅瓩亙陀の説法を収める。この部門を『長部』『中部』『相応部』『増支部』『小部』の五に分けるうち、第五の『小部経典』は長短さまざまの一五の経典を収めてある。このうちの第一を『小誦』とよぶところから『小部経典』と名づけたのであって、必ずしも小さい経典のみとは限らない。中でも、ここに訳出した『スッタニパータ』は『法句経』と並んで、あらゆる仏典のうちでもっとも古い成立に属する。『スッタニパータ』は一一四九の短詩を七二経にまとめてあり、これは五章に分れる。それぞれの章は一二ないし一八の経から成る。それぞれの経は最初から一貫した筋を追うものもあり、そのうちのあるものは散文の説明を加えるが、第一章第一経の如く、同じ題目の詩を寄せ集めたものもある。第五章だけは首尾一貫した一個の物語である。これらの経のうちの若干はアショーカ王(紀元前二八〇年即位)以前から存したものと考えられる。古い時代の教団の生活や考え方を知るために最も重要な資料である。ただし細かい点になると、ふつうに原始仏教として知られているものと必ずしも一致しないが、『スッタニパータ』はそれ以前の段階を示すものと考えられる。出家修行者ならびに在家信者に対する教訓は適切であるが、とくに第一章第八経、第二章第四経などは現在のわれわれの生活にもそのままあてはまる教えである。
 ヨーロッパでも前世紀以来たびたび出版され翻訳され、三種の英訳、二種の独訳がある。日本語訳は立花俊道(国訳大蔵経)、荻原雲来(大東出版社)、水野弘元(南伝大蔵経)、中村元(岩波文庫)のものがあり、このうち最後のものに詳しい文献がある。しかしきわめて古雅な文体で難解の個所が多く、右に挙げた九種の訳者の意見が別れることも多い。本書の訳は一般読者を対象としたが、理解を助けるために鉤括弧(〔    〕)で旧来の漢訳用例を示しておいた。とくに問題になる語の解釈にはジナ教聖典の用法を参照した場合である。


 解題文中の「ジナ教」とはジャイナ教のことで、「インドの宗教の一。開祖は、前六世紀ごろ、ほぼ釈迦と同時代のマハービーラ。ベーダ聖典の権威を否定し、無神論で、アヒンサー(不殺生)をはじめとする禁戒・苦行の実践を説く。三世紀ごろ、白衣派と裸行派に分裂。商業者に信者が多い」という。


 「第一章第八経、第二章第四経などは現在のわれわれの生活にもそのままあてはまる教えである」というので、その教えをいくつか掲げます。

 

 第一章 第八教「慈」(抄)

143 有益な能力あるものが、寂静の境地に達したならば、その義務として、有能であり、どこまでも正しく、ことばやさしく、おだやかで、高慢を捨てなければならない。
144 足るを知り、多くを求めず、用事少なく、簡素に暮らし、官能は平静で、聡明であり、高ぶらず、ひとの家に行ってもむさぼらない。
148 たとえどこにいても、ひとをだますな、軽蔑するな。怒ったり、恨んだりして、ひとの苦痛を願ってはいけない。

 

 第二章 第四経「大いなる幸福」(抄)

262 父母につかえ、妻子を保護し、安らかに仕事を続ける   これが最高の幸福である。
263 ひとに施し、正しい行ないをし、親族を保護し、ひとから非難されない行ないをする   これが最高の幸福である。
264 悪を避け、悪を離れ、飲酒をつつしみ、正義をなおざりにしない   これが最高の幸福である。
265 ひとを敬い、へりくだり、足を知り、恩を忘れず、時に応じて法を聞く   これが最高の幸福である。
266 忍耐し、柔和で、修行者たちと交わり、時に応じて法を語る   これが最高の幸福である。

 



2020.01.27 Monday 11:51
仏教の教え comments(0)
過去現在未来の諸仏、ともに仏となるときは、必ず釈迦牟尼仏となる

 大晦日の早朝、暮れのお墓掃除・お参りに来られたNさんが、境内掃除をしている拙を見つけ、今年一年お世話になりました。坐禅をすると爽やかで、東雲寺での坐禅が私の生活の柱になっています。来年もよろしくお願いしますというようなご挨拶をくださった。坐禅が生活の柱になっているという嬉しいお話をお聞きすることができ、こちらこそ熱心に坐禅会にご参加くださり、有り難うございますとお礼申し上げた。
 自身が気づこうと気づくまいとに関わらず、坐禅修行の中で仏さまや祖師方がご覧になった〈さとり〉の世界を目の当たりにするのである。そして坐禅を終えて日常の生活にもどるときに、爽やかさ清々しさを感じ、自分自身はもとより周囲の人びとやものごとに対しても謙虚に親切に丁寧に接することができるようになる。こうしたときに坐禅の功徳を実感させていただける。本当に有り難いと思う。
 昨年暮れに松岡由香子先生の眼蔵会(道元禅師著『正法眼蔵』の講義。駒澤大学禅研究所の道元禅研究会)に参加した。このときは『正法眼蔵』第二十九「山水経」の巻の後方部分(岩波文庫『正法眼蔵』(二)199〜204頁)だった。松岡先生の永年にわたるご研究の成果をもとに、緻密な検討を加えた資料を使い講義が進められた。
 資料の中で気になるところに朱線を引きながら学ばせていただいた。特に古今の解釈に対する松岡先生の忌憚のない検討考察に深く頷くところがあった。皆さんに紹介したいところがたくさんあるのだが、残念ながら紙幅に限りがあり、そのごく一部を以下に紹介したい。

 

 次は「山に入る」ということをめぐっての説示である。《身心学道》では〈踰城し入山する、出一心入一心なり。山の所入なる思量箇不思量底なり、世の所捨なる非思量なり〉と示されていたことから、〈山は、いりぬるよりこのかた〉というのは、実際に山に入るということも含意しようが、仏道に入ること、つまり修証することが主な意味であろう。また一章二節の〈山中とは世界裏の華開なり〉とは、仏道においてひとりの人のさとりが成就することを意味する。それを考慮すれば〈山に入る〉は、〈ひとのさとりをうる〉ということをも含意している。(中略)
 〈山は、いりぬるよりこのかたは、一人にあふ、一人もなきなり〉とあるが、なぜ山に入ってからは会う一人もない、ということになるのだろう。諸釈のように山に入ればもはや山になっていて、人ではないから、人には会わないというようなことではなかろう。山に入れば、すなわち仏になれば、もはや人としての個人は脱落して、〈過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり〉《即心是仏》といわれて、〈一人〉という個人はなくなるのである。さらに〈あふ〉も、さとりにおいてはいずれにせよ〈山中人は不覚不知なり〉(一章二節)なのである。それは〈自己を諸仏なりと覚知することをもちいず〉《現成公案》ともいわれていた。《谿聲山色》では〈恁麼時の而今は、吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、仏眼も覷不見なり。人慮あに測度せんや〉と冒頭にいわれている。仏道の修証は、自分も他人も覚知しない、分からないのであるから、〈一人にあふ〉ということはありえないのだ。人の知見・認識・覚知の絶えたところ、そこは〈ただ山の活計するのみなり〉である。山の活計は、不覚不知の行仏でもある。


 引用文中の一章二節とは、松岡先生が正法眼蔵の本文を区切り付されたもので、岩波文庫『正法眼蔵』(二)の185頁にある説示だ。
 『正法眼蔵』「行持」下の巻の「祖仏として行持するわれありしなり」については、松岡先生が言及されている「過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり」という道元禅師の説示が鍵となると思う。そして坐禅を中心とする修行の護持・持続が不可欠なのだ。
今年も坐禅修行に精進しましょう。



2020.01.06 Monday 08:44
道元禅師の教え comments(0)
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