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堀江トヨさんが書写した「服従法」など

 日露戦争従軍看護婦・堀江トヨさん(1878〜1906)の遺品に和綴冊子『服従法』(本文46頁、B5版大)と『海軍 服従法』(本文63頁、同前)があった。『服従法』が「甲 陸軍」に関するもので、「乙 海軍」に関するものが『海軍 服従法』だ。後者の1頁〜48頁は海軍武官の階級、服制徽章の各種の図面、その解説などが丁寧に書写されていた。そして49頁〜58頁前半までが「敬禮法」。その後の58頁後半〜63頁まで「服従法」と「尊称及称呼」が書写されていた。ただし、「敬禮法」までの筆致とおよそ異なる毛筆の殴り書きだった。このためトヨさんが書写した「服従法」には判読困難な箇所があった。 


 インターネットを使い〈服従法〉という語で検索し調べた。これまでのところ条文が完全に一致するものはないが、類似のものとしては国立国会図書館デジタルコレクションの宮澤代太郎編『軍隊學:兵卒教範』(東雲堂、1989〈明治31〉年11月)の「服従」の条文、大濱徹也編『近代民衆の記録 8 兵士』(新人物往来社、1978〈昭和53年10月)所収の「服従」(『在郷軍人心得』1908〈明治41〉年6月)の条文があった。これらを参照しつつトミさん書写の「服従法」を読んでみたい。

 その前に、まず49頁からの「敬禮法」の冒頭部分を紹介する(句読点、ふりがなは柚木。以下同じ)。


     陸軍禮式抜萃
  爰ニ陸軍禮式ヲ裁定セラル。夫レ禮式ノ軍人ニ於ケルヤ重キ事、常人ニ倍蓰スル(中略)此ノ禮式ノ主トスル所ハ唯外貌ノミニ非スシテ、最モ中心ニアル者トス心苟モ恭敬ナラザレバ外貌或ハ正シクヲ表スルモ、唯是虚文仮飾ニシテ決シテ眞正ノ禮儀ニ非ズ(中略)
     陸軍禮式 総則
  第一條 (中略)
  第二條 禮式ハ其人ニ對シテ行フニ非ス、其官職ニ對シテ行フ者ナレハ、受禮者ハ毫モ之レヲ宥恕ス可カ〔ラ〕ズ(後略)
礼式は軍人にとって重要なことなのでこれを定めるが、上辺を取り繕うことでなく心から敬い行うことが重要であり、礼式は官職に対して行うものだなどということが記されている。こうしたことを承けていよいよ「服従法」である。
     服従法
  第一条 凡ソ命ニ服シ令ニ従ハ紀律整立ノ基タルヲ以テ上下尊卑ノ分ヲ乱サス。上タル者ハ下タル者ヲ愛シ、下タル者ハ上タル者ヲ敬ヒ、其心ヲ公平ニ置キ、諸事柔和ニシテ決シテ威迫粗暴ノ擧動アル可カラス。
  第二条 凡ソ下級者ハ上級者ニ對シ服従スルトキハ階級ヲ逐フテ厳重ナルベシ。決シテ諛フコトナク各其分限ヲ守リ以テ恭敬尊奉スベシ。此階級ニ就テハ同級同僚中ト虽トモ新古ニ應シ服従ヲ要ス。総テノ勤務及公會ニ於テモ之ヲ守ラシム。故ニ此法ヲ労シテ恰モ階級ノ上ナルモノニ於ケルガ如クナルベシ。
  第三条 物品或ハ場所其他諸般ノ監守勤務中ハ、各其職權アルヲ以テ、上級者ト虽トモ此者ニ對シ勤務上ニ就テハ其權ヲ犯ス可ラス。
  第四条 我ガ陸海軍隊ハ勿論同盟國ノ赤十字社又ハ軍隊ト虽トモ、連合スルトキハ亦同シク服従ノ守定則ニ守ルベシ。(後略)


 上たる者は下たる者を愛し、下たる者は上たる者を敬って服従し、同級同僚でも新参の者は古参に服従する、下級者が監守勤務中などのときは上級者であってもその職権を犯してはならないなどということである。そして第四条には「赤十字社」という語が出て来る。が、これは今のところ他の「服従」の条文には見当たらない。
 末尾の「尊称及称呼」では、天皇皇后には陛下、皇太子や皇族には殿下。勅任官(中将、少将)には閣下、奏任官(大佐から少尉など)には殿という(親任官〈大将〉の文言欠)などが記されていた。最後に上級者が下級者を呼ぶときには姓と職とを呼ぶとして「例令ハ某主幹若クハ某看護婦ト云フガ如し」とあった。
 トヨさんが、和綴冊子『海軍 服従法』の中で肝腎の「服従法」を殴り書きしたのは何故だったのか。

 時間が無くて急いで書写した?

 服従法の条文の内容が自明のことで写すほどのこともなかった?
 



2020.05.31 Sunday 21:46
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柚(ユズ)の花

 

先代住職が自身の姓「柚木」に因んで境内の何カ所かに柚の木を植えていた。

今年はその柚の木の一本が写真のようにたくさんの花をつけている。

みな口をそろえて「今年は柚の花がたくさん咲いている」と。

このままたくさんの柚が実るわけではないと思うが、ちょっと楽しみ。



2020.05.09 Saturday 11:01
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サクランボ

 

4月末からの数日間、東雲寺の東側の丘の上の草刈りをしています。一日二時間あまりですが、エンジン付草刈り機を使って草刈りをすると、作務衣が汗でぐっしょりになるような感じです。

ふと眼を上げると、河津サクラの枝に可愛いサクランボがたわわになっていました。

食用の「佐藤錦」のような食べられる大きさのサクランボではなく小粒ですが、五月晴れのもと、見応えがありました。



2020.05.03 Sunday 06:03
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境内の藤の花

 

 朝のお散歩で東雲寺に立ち寄る中で、藤の花の写真を撮っている方たちがいます。

 もう少し紫色が鮮やかになるような気がしますが、朝日に映える藤の花の鮮やかさは、写真では分かりません。

 



2020.04.25 Saturday 17:57
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敵味方の差別なく日露戦争負傷兵を看護した堀江トヨさん

 日露戦争従軍看護婦・堀江トヨさん(1878〜1906)の遺品を拝見する機会があり、そのことを通して、そのお徳、ご生涯を偲びつつ、トヨさんが生きた時代を見てみようと思っている。
 日本赤十字社のホームページによると、1889(明治22)年6月に「日本赤十字社看護婦養成規則」を制定し、同年11月に看護婦生徒募集や養成手続きの草案をまとめ、生徒募集10名で1890(明治23)年から養成を開始したという。
 トヨさんが自ら書写した教本や講義録などの遺品の中でもっとも古い日付が記されたものが『明治丗三年九月十六日/試験室ノ心得』(1900年、B5版ほどの和綴冊子)である。
 堀江トヨさんの遺品資料の展示を計画している研究者の方たちの事前調査があり、急きょ、遺品の持主のH・Hさんにお返ししたためこの『試験室ノ心得』の詳細について未確認なのだが、赤十字社病院の看護婦生徒募集に応募したトヨさんにとって、これはいわゆるの「受験要項」のようなものではなかったかと思う。
 そしてトミさんは入学後三年間、赤十字社病院看護婦養成課程で学びつつ病院での明番や宵番などを勤めた。1903(明治36)年10月15日に病院長より「看護婦證書」が授与され、翌16日付で「日本赤十字社準備看護婦ヲ命ス」という辞令を受けている。その翌年の1月16日には東京府知事より「看護婦免状」を付与され、看護婦としての活動を本格的に始めたようだ。

 

 ところで、なぜ堀江トヨさんが日本赤十字社病院の看護婦生徒募集に応募したか、である。トヨさんは当時の女性として高度の教育を受け、広い視野と種々の情報を得ることができる家庭環境にあったのだろうと思う。また、母親の堀江フデさんが1899(明治32)年5月15日に47歳で亡くなっており、それが看護医療への道に進むきっかけになったのかも知れない。

 

 赤十字社は、スイス人の実業家アンリー・デュナンの「戦場の負傷者と病人は敵味方の差別なく救護する」という考えから設立に至った国際組織である。デュナンに敬意をはらい彼の母国スイスの国旗から「赤十字」をシンボルとし組織名にしたとされる(現在では「赤新月社」などもある)。日本では、1877(明治10)年2月の西南戦争の折に多数の死傷者が出て、その悲惨な状況を目にした佐野常民(1823〜1902年、佐賀藩出身、明治の政治家)によって赤十字社と同じような「博愛社」が創立され、1886(明治19)年に日本のジュネーブ条約加入によって、その名称を変えて日本赤十字社が発足している。
 こうしたことで、もともと日本赤十字社は戦時救護を目的に設立された組織だったが、1888(明治21)年7月の磐梯山噴火、1891(明治24)年10月の濃尾大地震などを契機に災害救護も行うようになって今日に至っている。

 

 堀江トヨさんは、町田地方史研究会編『町田歴史人物事典』(小島史料館、2005年)によると「明治36年赤十字社第二救護班に編入され、翌37年5月、日露戦争勃発とともに広島陸軍病院勤務。この頃弟の重治が出征。同年11月、宇品と大連を結ぶ病院船博愛丸に転乗。日露戦争が激しくなるにつれて、傷病兵の数も増し、堀江は患者一人一人の看護と激励に情熱を燃やしていった。こうして、宇品・大連間を11か月に40数回往復した(以下略)」という。

 

 再び日本赤十字社のホームページを見ると

 

 日露戦争は1904(明治37)年2月に勃発し、約1年9ヶ月の間に多くの傷病者を出ました。日本赤十字社はこの間に152の救護班、約5,170人の救護員を満州や朝鮮などの戦地、大陸と日本を往復する病院船、また国内の軍病院などに派遣しました。
 日本赤十字社の救護活動は、日本兵だけにとどまらず、ロシアの傷病兵や俘虜(捕虜)に対しても同様に行われました。

 

 とあり、これには治療中の負傷ロシア人捕虜や愛媛県の松山俘虜収容所で義足を手にする捕虜の写真が添えられていた。トヨさんは博愛丸で敵味方の差別なく傷病兵の救護にあたっていたのだ。(つづく)



2020.04.20 Monday 12:31
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最古のお釈迦さまの伝記

 並川孝儀著『書物誕生―あたらしい古典入門《スッタニパータ》―仏教最古の世界』(岩波書店、2008年)の第8章 第1節「最古層資料にみるゴータマ・ブッダの生涯」(172頁)によれば、

 

 第4章・第5章で生涯に関する記述といえば、サーリプッタ長老が語ったとされる、つぎの二つの偈だけであろう。

 

私は今まで見たこともなければ、誰からも聞いたこともない、このようにみごとに説法される師が、〔弟子や信者などの〕集団の担い手としてトゥシタ天からやって来られ、(955)


〔真実を見る〕眼をもつ人が、神々も存在する〔この〕世界に現れ、一切の暗黒を取り除いて、ただ独り法楽を体得された。(956)

 

 ここには、トゥシタ(兜率:とそつ)天から弟子集団の担い手である師がこの世に生まれ、すべての妨げを取り去り、悟りを得たという内容が説かれる。ただし、主語は師(サッタル)と(真実を見る)眼をもつ(チャックマント)であって、ブッダという呼称で表記はされていない。

 

 と解説されている。

 当然のことながら、最初期の伝承にはお釈迦さまを「ブッダ」とは呼称していなかったようだ。

 この955偈と956偈の並川孝儀氏の訳と中村元先生の訳を比較して読んでみてほしい。

 



2020.04.14 Tuesday 10:44
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梅花講員の皆さんと降誕会法要を勤めました

 

 昨日、ご無理のないように事前に連絡網を使ってお知らせし、ご出席の講員さんにはお互いに間隔を広く空けて坐り、まず「般若心経」を読誦し、三宝御和讃、釈尊花祭御和讃、花祭御詠歌をお唱えし、その後、住職が最古層の仏典『スッタニパータ』に伝えられている原初の「釈尊伝」や道元禅師『永平広録』中の「周行七歩」「天上天下唯我独尊」などによってお花まつりに関わるお話しをしました。以下に「レジュメ」を掲げます。

 

お釈迦さまの「釈迦」について

 

サンスクリット語やパーリ語の「シャーキヤ」の音写。仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ(釈尊)の属していた種族の名。
釈迦牟尼の略称。紀元前463〜383年頃。一説に紀元前566〜486年頃、南方伝承では紀元前624〜544年頃。姓をゴータマ(瞿曇)、名をシッダールタ(悉達多)という。「釈迦」とは「釈迦牟尼」の略称で、釈迦族出身の聖者を意味し、「釈尊」はその異称。いまは「ゴータマ・ブッダ」または「ブッダ(仏・仏陀)」と呼ぶことが多い。釈迦は、釈迦族の中心地であるカピラヴァスツで父をシュッドーダナ(浄飯)、母はマーヤー(摩耶)といい、その長子として生まれた。カピラヴァスツは現在のネパールの南辺からインドの国境付近のタラーイ盆地にあり、その近くにあるルンビニー園が誕生地である。誕生日は4月8日(一説には2月8日)とする。(後略)【参考  岩波仏教辞典】

 

お花まつりについて

 

お釈迦さまの誕生日を祝って「花まつり」というようになったのは、そう古いことではない。
明治時代末に、近代日本の仏教界の指導的人物・教育者であった渡辺海旭師(明治5〜昭和8年、浄土宗僧侶、東洋・大正大学の教授)がドイツ留学時にイースター(復活祭=春分の日後の満月直後の日曜日に行われるキリストの復活を記念して行う春の祭事)が盛大に行われるのを目の当たりにして帰国。日本でもお釈迦さまの誕生日を楽しくお祝いしたいと考え、「花まつり」という美しい名称を考案、それが宗派を超えて全国にひろまったとされている。

 


「スッタニパータ」の中のお釈迦さまの最古の伝記(中村 元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、1984年)

 

「スッタニパータ」の中でも最も古い伝承とされる伝記

955 サーリプッタさんが言った、   わたくしは未だ見たこともなく、また誰から聞いたこともない。   このようにことば美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。

 

956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。

 

古い伝承とされる伝記

683  (神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、   シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。

 

684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、やがて〈仙人(のあつまる所)〉という名の林で(法)輪を回転するであろう。   猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」

 

1002 もしもかれが、〈転輪王〉として家にとどまるならば、この大地を征服するであろう。刑罰によらず、武器によらず、法によって統治する。

 

1003 またもしもかれが家から出て家なきに入れば、蔽いを開いて、無上なる〈目ざめた人〉(ブッダ)、尊敬さるべき人となる。

 

以上の他にスッタニパータに伝えられている伝記

685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のようにいった、
 「王子はどこにいますか。わたくしもまた会いたい。」

 

686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を、アシタという(仙人)に見せた。   溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき幸福に光り輝く尊い児を。

 

690 相好と呪文(ヴェーダ)に通暁しているかれは、シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、(特相を)検べたが、心に歓喜して声を挙げた。   「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」

 

991 「むかしカピラヴァットゥの都から出て行った世界の指導者(ブッダ)がおられます。かれは甘蔗王の後裔であり、シャカ族の子で、世を照す。

 

992  バラモンよ。かれは実に目ざめた人(ブッダ)であり、あらゆるものの極致に達し、一切の神通と力とを得、あらゆるものを見通す眼をもっている。あらゆるものの消滅に達し、煩いをなくして解脱しておられます。

 


道元禅師の法語(永平広録)

 

75 仏生日の上堂。尽界、多時にして天暁けなんと欲。乾坤、今日採光彰わる。周行七歩して全力を費やす。未だ傍観の笑い一場を免れず。

 

177 大仏寺を改めて永平寺と称する上堂。《寛元4年丙午6月15日》
(前略)世尊降生して、一手は天を指し、一手は地を指し、周行七歩して云く、「天上天下唯我独尊」と。世尊道えることあり、これ恁麼なりといえども、永平道うことあり、大家、証明すべし。良久して云く、天上天下当処永平。



2020.04.08 Wednesday 16:29
東雲寺あれこれ comments(0)
お花まつりーお釈迦さまのお誕生日

4月8日、お花まつり

昨日午後1時から、ご近所のYさん、Mさん、Mさん、Hさんが来山、花々を飾り付けてくださった花御堂を

今朝、本堂正面に移し奉安いたしました。



2020.04.08 Wednesday 10:01
東雲寺あれこれ comments(0)
タケノコが採れました

 

東雲寺の境内で毎年一番早くタケノコが出て来るところから2本頭を出しました。

タケノコを使った散らし寿司とワカメとタケノコのお味噌汁をいただきました。



2020.04.04 Saturday 21:29
住職雑感 comments(0)
4月4日の朝の桜



2020.04.04 Saturday 11:53
住職雑感 comments(0)
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