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NPO法人「成瀬会館」歴史文化講座で講演

 

 2月17日14時〜15時45分、東雲寺のごく近所にあるNPO法人「成瀬会館」の木目田 元理事長さんや同会館事業委員会の小室政治さんからのお勧めがあって、「東雲寺/地域の人々と歩む400年」と題した講演をさせていただきました。

 ちょうどこのときに平昌冬季オリンピックのフィギュアスケート男子シングル・フリースケーティングで羽生結弦選手と宇野昌磨選手が金、銀のメダルを獲得した時間でしたが、70数名の方が住職の話を聴きにきてくださいました。

 郷土の歴史研究、調査に長年関わっておられる井上恭一先生(元町田市教育委員長)はじめ中里猪一さん(成瀬会館前理事長)、矢口 昇さん(町田地方紙研究会事務局長)など、郷土史家の諸先輩が大勢いる中で、「素人の私が?」と思っていました。そんなことで自信がない分、資料を準備しようと思って、結果、資料を作りすぎ、半分くらいしかお話しできなかったのですが、終わりの時間を厳守し、責めをふさぎました。すると司会進行の木目田邦夫さんから「秋に第二回目を」というお話しがあり、これにはちょっと驚きましたが、今回については木目田理事長さん、小室さんたちからのご依頼に何とかお応えできたように思います。

 



2018.02.17 Saturday 17:39
東雲寺あれこれ comments(0)
福寿草
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2018.02.17 Saturday 12:17
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境内の白梅
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2018.02.17 Saturday 12:13
- comments(0)
涅槃会

 

 2月15日午後、東雲寺本堂で梅花講の皆さんと涅槃会(ねはんえ)法要を勤めました。

 涅槃会法要に向け、朝早くから梅花講員さん4名の方にお寺に来ていただいて、涅槃団子を作っていただきました。

 法要後には、お釈迦さまの「涅槃」にまつわるお説教を原始仏典『ダンマパダ(法句経)』の中から紹介しました。

 さらに参列者全員で涅槃団子を頂戴しました。



2018.02.16 Friday 08:00
東雲寺あれこれ comments(0)
追悼 奈良康明先生

 1月30日(火)14時〜16時、奈良康明先生(2017年12月10日逝去、享年89歳)の本葬儀に参列焼香させていただいた。葬儀の式次第や配役が記された小冊子に奈良先生の遺偈が掲載されていた。禅僧一般が末期に示す四言絶句の遺偈の他に二篇の散文詩の遺偈があった。その内の一つを以下に紹介する。

 

愚直 率直 オッチョコチョイ
後先見ずに走り出し
走りつづけて八十九年
さすがにちょっとくたびれました
功なく 徳なく 悟りもないが
黄泉でも同じく ぶきっちょに 走ってます

 

 先生のお弟子さんの法清寺住職・奈良修一師の解説によると「(前略)禅僧の遺偈は漢詩が普通です。生前から、東堂和尚は自分には漢詩の素養がないし、何も無理に漢詩である必要もない、思いのままを普通の文章で示したいと折に触れて言っていました。(中略)東堂の心情を実直に吐露したものです。弟子の目からは見えない心境を平易な言葉で語っています。確かにこの部分は漢詩には出来ないと思います。それだけに、東堂らしい詩です」とあった。この「東堂」とは禅寺で住職を退任した前住職の呼称である。
 先生は1966(昭和41)年から2006(平成18)年まで台東区下谷の法清寺住職を務められ、現職を退かれた後も熱心に教化活動に取り組まれていた。そして80歳を超えられた先生のもとに福井県の大本山永平寺から西堂(せいどう=禅宗で他の寺を引退した長老で、その寺に来て教化を助けるもの。永平寺の正副住職に次ぐ上席の僧)に迎えたい。若き修行僧たちへ定期的にお釈迦さまや道元禅師の教えを講義してほしいという要請があった。先生はこれを請けられ、2012(平成24)年5月から東京と福井との往復を繰り返された。私などが本山の春秋の大法要に随喜のため上山すると、スーツ姿の先生を見慣れていた拙の目の前に、なんと法衣を纏った先生がおられ、参拝者の方たちなどに講話をなさる先生のお姿を何度もお見かけした。そうした折には先生のお話を障子越しに拝聴させていただいた。

 奈良先生は永平寺の月刊誌『傘松』に「釈尊と道元禅師〜慈悲の実践〜」を連載中で、その行間からは先生のお声が聞こえてくるようだった。昨年11月号の文末には「つづく」とあった。
 奈良先生の本葬儀の参列者への返礼品の中に先生の『他を自分の身にひきあてて 仏教における「慈悲」のこころ』という印刷物が入っていた。昨年7月26日に行われたインタビューの記録で、12月30日発行の書籍の抜刷だった。そこに先生のご著書『ブッダの詩』(NHK出版、2011年)の最後に掲げられている原始仏典『ダンマパダ』の

 

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。
すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

 

 が紹介されていた。先生は「この詩を仏教における暴力否定・戦争否定を高らかにうたいあげているお釈迦さんの言葉だと理解してい」ると仰られていた。
 奈良先生は1971(昭和46)年から1993(平成5)までの長きにわたりNHKテレビの「こころの時代」に出演されていた。多くの宗教者、識者などを招いての対談番組だったが、先生の恩師中村元先生との対談は数十回行われ、拙もよく視聴させていただいた。番組の中で中村、奈良両先生がいつも「お釈迦さん」「お釈迦さん」と仰られていて、お二方がお釈迦さまをごく身近に感じておられ、深い敬愛の念をお持ちの様子が窺えた。
 奈良先生はよくご自分を「インド屋」と言っておられた。東京大学印度哲学梵文学科卒業後、インド・カルカッタ大学に留学されていて、インド宗教文化史の「現地」を知る研究者だった。
 また、先生は駒澤大学の学長、総長などの重職を歴任する一方で、東方研究所常務理事、仏教学術振興会理事長、大蔵経データベース化支援募金会事務局長なども務められていた。



2018.02.14 Wednesday 10:32
曹洞宗あれこれ comments(0)
立春が過ぎ、東雲寺境内の紅梅が開花
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実は1月末から一輪二輪紅梅が咲いていたのですが、数十年ぶりの寒さで停滞してました。


2018.02.06 Tuesday 19:58
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そもそもなぜ葬儀をするのか を 考えてみませんか

 今年最初の坐禅会の後でHさんからお手紙と自作の漢詩をいただいた。Hさんは折にふれてお手紙や漢詩を届けてくださる方である。氏はお仲間とともに漢詩や写真などの趣味の活動をなさっておられ、東雲寺坐禅会には1987(昭和62)年から参加くださっているベテランの参禅者だ。また、毎月第四日曜日午後開催の東雲寺仏教講座だが、6年ほど前に一時中断していた折、「『正法眼蔵随聞記』を読む」で再開するきっかけを与えてくださった方でもある。

 

  (前略)12月3日の「坐禅会たより」で「そもそもなぜ葬儀をするのか」(12月10日ブログ掲載)の一文を掲げられましたが、私も最近の親族の葬儀で「哭薄葬(こくはくそう)」という漢詩を作りました。
  「焼き場」でご遺体を焼却し、そのまま後日、市営墓地に納める。儀式も永別のご挨拶もしない。一体どういう事でしょうか? 「たより」の一文も現代の風潮をただ報じているだけではないのでしょうか? 具体的な対応策を提案できないのでしょうか? 葬儀の簡略化と精神的な家族の結びつきの崩壊とは関係がないのでしょうか? 人類は時代とともに「儀式」を考案して精神の作興(さつこう)と社会の維持を図ってきました。さらに宗教者がその役割を担ってきたのだと思います。
  やさしい社会をと言われるだけで、恐ろしい犯罪とも言えない理解に苦しむ事件が続発しております。
  家族制度の崩壊により、「本家」は存在しなくなり、我が家では分家の長男である私が本家の代わりを果たしておりますが、これにもおのずと限界があります。今まさに「眷属(けんぞく)の他人化」が始まっているのでしょう。
  「死者儀礼の放棄」から「良俗の崩壊」に突き進み社会は「混沌化(こんとん
か)」するのでしょうか。
  友人にこの話をしても「今は、何処でもそうだよ」と平然としております。自分も高齢となりこの先が分からなくなってきております。
  ぜひ問題提起のみではなくて、住職が現実と向き合って我々大衆をお導き頂けたら幸いです。

 
    哭薄葬
  十月の寒風 故人を哭し
  子孫眷属 愁ひを抱きて顰(ひそ)む
  忽忙(そうぼう)たり身世(しんせ) 黄梁(こうりょう)の夢
  寂寞(せきばく)たり  何ぞ堪へん 総て塵と為るとは

 
 漢詩後半の二句の意味を推し量るに、葬儀に参列して思うことは、私たちの一生はせわしく、人生は儚(はかな)い。最後はすべては塵のように取るに足らないものになってしまい、もの寂しい限りだなぁというような意味だろうか。

 

 漢詩をいただいたこともさることながら、「そもそもなぜ葬儀をするのか」に対して、Hさんがこうしたご意見をお寄せくださったことに対し心から御礼を申し上げたいと思う。願わくはブログ読者各位におかれても、このことに関するご意見ご感想などをぜひお寄せいただきたい。
 

 お手紙にあった宗教者は現実と向き合って大衆を導いてほしいということについての応答は暫く猶予をいただきたい。その代わりに現状認識を共有し、ご意見ご感想などをいただくため、私が近年の葬儀において見聞きし感じていることのいくつかを以下に記す。ご一読願いたい。


 高齢者の葬儀の場合、家族や近しい親族でも高齢のため参列できず、しない場合が多い。まして友人知人の参列などはほとんどない。さらに少子化、晩婚化、生涯独身者の増加などによって、故人を送る側の人数が少なくなったように思う。親と子や孫たちとが同居しておらず、家計が親子別々なためか、5、60歳代の子であっても喪主を務めず、高齢の配偶者などが喪主になるケースが多い。親子同居せず、あるいは近所に住んでいない子たち次世代へ、地域社会の付き合いや慣習、寺院との関わりなどが伝承されなくなっている。そしてこの次世代の人たちへの東雲寺からのアプローチ手段、接点が、現時点ではほとんど無いのだ。



2018.01.31 Wednesday 09:56
住職雑感 comments(0)
原始仏典『法句経』を読む 

 東雲寺仏教講座で『法句経』を読むことにした。念のため申し上げるが、『法華教』と名前が似ているが、まったく違うお経である。『法句経』とは原始仏典のひとつで、お釈迦さまの〈生〉の言葉が記されているとされているものだ。『仏典解題事典』第二版(春秋社、1977年)の解説を見てみよう。

 

 法句経(ダンマパダ、真理のことば)。パーリ語で書かれた南方上座部の経蔵(小部)に含まれるテキスト。

 全編432の詩集で、これを対句・不放逸・こころ・花・愚か者・賢者・拝むに足る人・千の数・悪・むち・老・自己・世間・ブッダ・安楽・愛好・怒・汚れ・真理に生きる・道・雑集・地獄・象・欲望・修行僧・バラモンの26章に分類している。主として単独の偈(詩)を集め、時として二偈もしくは数偈が群をなす。この詩集の内容をよく見ると、ある時期に一人の人が書き下ろしたような作品ではない。原始仏教教団の中にあって、いろいろな形で伝えられていた詩を集めて、編集したものであることがわかる。編集の時期は、紀元前4〜3世紀であろうが、個々の詩ははるかに古い起源を有する。本経は仏教の倫理的教義を教えて仏道入門の指針としている。膨大な仏教経典の中でも最古のもので、ブッダの真意を伝えた珠玉の文字として珍重される。古来最も広く仏教徒に愛誦せられたもので、これほど古くまた広く仏教徒に読まれた聖典は他にないと言ってよい。したがってまた異本が多い。(後略)

 

 仏教講座で『法句経』を読み進めるために、以前より所持していた数冊の『法句経』関係の書籍の他に、新たにいくつかの現代語訳や講義本などの書籍を購入した。それらにざっと目を通して、講座での学習、検討材料として、四種の現代語訳や漢訳などを選択し、東雲寺仏教講座の独自教材を作成した。
 その四種の訳を『法句経』の中の一つの偈(詩)を例に見てみよう。『法句経』と言えば友松圓諦(1895〜1973年、日本の宗教家、仏教学者)と言われるほどの方だが、その友松師によるパーリ語経典からの邦訳と現代語訳を『法句経』(講談社学術文庫、1985年)から紹介する。まずはその独特な味わい深い邦訳。括弧内は友松師独特のふりがなである。

 

   意(おもい)は諸法(すべて)にさき立ち
   諸法(すべて)は意(おもい)に成る
   意(おもい)こそ諸法(すべて)を統(す)ぶ
   きよらなる意(おもい)にて
   且つかたり且つ行わば
   形に影がそうごとく
   たのしみ彼にしたがわん

 

 次に友松師による現代語訳。

 

 もろもろの事象は意志にしたがって生起する。それゆえに、意志はそれらに対して支配者であり、作者である。誰でも、もし純な意志をもって、或は語り、或は行うならば、やがて、たのしみは彼にあとづける。ちょうど、あの離れることをしない影のように。

 

 三つ目は紀元224年に支謙・竺将焔によって訳された漢訳経典を友松圓諦訳『法句経』(講談社、1975年)から紹介し、返り点を参考にしてその読み下し文(柚木の訓読)を掲げる。

 

  心為法本 心尊心使
  中心念善 即言即行
  福楽自追 如影随形
 
  心を法本と為す。心、尊く心に使わる。中心に善を念じて、即ち言い即ち行わば、福楽の自ら追うこと、影の形に随うが如し。

 

 四つ目は中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』(岩波文庫、1978年)の現代語訳。

 

  ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。    影がそのからだから離れないように。

 

 ここの「清らかな心」とは、仏教語の「清浄心」であり、この清浄は浄・不浄の浄の心ということではなく、「とらわれない心」「執着のない心」のことである。
 こうして複数の訳文を並べて見ていると、漢訳者たちのはたらきに深く敬服しつつも、私などはこれまでほぼ漢訳経典だけで仏教を学び、考え、教えを説こうとして来たようであり、忸怩たる思いがある。



2018.01.31 Wednesday 09:36
仏教の教え comments(0)
朝日が射し始めた境内の雪景色
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2018.01.23 Tuesday 17:49
東雲寺あれこれ comments(0)
東雲寺墓地の雪
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2018.01.23 Tuesday 17:43
東雲寺あれこれ comments(0)
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