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種姓を観ずることなかれ

 一月前ほどになるが、8月18日夕刻、私は上野広小路の鈴本演芸場に行った。鈴本の八月中席(8月11日〜20日)に毎年恒例で柳家さん喬師匠や露の新治師匠などが出演されているからである。新治師匠は仲入り前に上方落語の大ネタ「口入屋」を好演、さん喬師匠はトリで人情噺「たちきり」をじっくり聞かせてくださった。
 新治師匠は、数年前からこの鈴本出演前日の8月10日に、私がお願いして横浜市港北区の寺院で大施食会(おせがき)の法要前に人権高座や落語をしてくださっている。今年は特に猛暑の中、汗ビッショリで高座をお勤めいただいた。お着替え中の師匠に御礼を申し上げると、「私が全国各地の宗教関係のところで人権の話をするようになったのは、考えてみると柚木さんとの出会いがきっかけで、ほんまに有り難うございます。私に人権を語る資格があるのか、考え悩むことがありますが、気を引き締めて願生(がんば)ります」というようなことを言われた。

 新治師匠は奈良県ご出身で、私と同じ1951(昭和26)年生まれ、1月8日が誕生日なので、私より一月余兄貴分だ。師匠は、奈良県の夜間中学設立運動に関わる中で学んだ人権感覚を活かし「新ちゃんのお笑い人権高座」を全国各地で行っておられる。また、狭山裁判再審請求運動(被差別部落出身の石川一雄さん〈80歳。逮捕当時24歳〉が、部落差別による見込み捜査や「差別裁判」によって、無実の罪で31年7ヵ月間もの長期にわたり獄中に囚われていた冤罪事件)にも長くとりくんでいる方で、差別撤廃・人権確立の活動を実践し続けている尊敬すべき同志であり先達である。

 

 道元禅師の著述『正法眼蔵』「礼拝得髄」の巻に次のような説示がある。


 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のいはく、「無上菩提(むじょうぼだい)を演説する師にあはんには、種姓(しゅしょう)を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。」


 試みに現代語訳をすれば、お釈迦さまが次のように仰られた。「この上ない仏教の教えを説き示す師(先生)に出会ったならば、その人の氏素性を問題にしてはならないし、顔かたちの良し悪しを考えてはならない。非(欠点。不正。あやまり)と思われることがあっても嫌ってはならないし、行いについてもあれこれ考えてはならない」というような意味である。

 この教えについて私は初め「無上菩提を演説する師にあはんには」という条件があると思っていた。しかし後に門馬幸夫先生(駿河台大学名誉教授)にお教えいただく中で、私が出会った方たち、これから出会う人たちに対しても「種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ」という教えだということに気づいた。すべての人を尊び、あらゆる人びとから学ぶ、そういう生き方をしなければ、真実に出会うことができず、自分の人生をまっとうすることができないのである。

 

 20数年前、ある地方の曹洞宗役職員人権学習・「同和」研修会が開催された。部落解放同盟の地元県連合会の方に講演をお願いし、差別の事態、解放運動などについて話をしていただいた。その方は人前で話すことに慣れておらず、ましてや聴衆が全員僧侶だったためか、とても緊張しながら話をされていた。
 講師が講演を終えてお帰りになった後、研修会の地元責任者で司会のU師が「種姓を観ずることなかれ」という教えはあるがと前置きして、講師の服装や演壇での姿勢などを「無礼だ」と批判した。が、U師は講演中に会場を何度も出入りして講師の話をほとんど聴いていなかったことを私は見ていた。若輩の私がその点を指摘すると、とても不機嫌そうだった。その日まで私はU師をその地方の高徳の僧の一人だと思っていたが、実はU師は「種姓を観ずることなかれ」を本当には理解されていなかったようだった。

 

 新治師匠が「私に人権を語る資格があるのか、考え悩む」と仰っていたが、切に差別撤廃・人権確立を願っている師匠のお話しは「無上菩提の演説」に等しいと私は思っている。



2019.09.25 Wednesday 11:45
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「眼横鼻直」は道元禅師の教えではない

 12月15日、横浜市保土ケ谷区上星川の「花しん」さんで、いつもお世話になっている諸先生方を囲んで恒例の年忘れの会を開催した。毎度のことだが、いつものメンバーで談論風発の中、楽しいひとときを過ごさせていただいた。今回は残念ながら石井修道先生(駒澤大学名誉教授)は先約があって欠席された。一月ほど前にこの会の案内状を差し上げたところ、先月末に石井先生から12月15、16日に駒澤大学禅研究所主催の国際シンポジウムがあるため欠席というお葉書をいただいた。さらに「忘年会の誘いをいただきありがとうございました。シンポジウムの案内を添付します。私の発表も添付しておきましょう」というeメールも頂戴した。添付されていたのは「『永平広録』成立考」という四百字詰め原稿用紙にすると80数枚になるご論考だった。
 早速、拝読した。前半は道元禅師の説法などをお弟子たちが記録、編集した『永平広録』に卍山本(流布本)と門鶴本(祖山本)系統の二つの写本の流れがあり、それを子細に比較検討してみると卍山本には道元禅師の主張と関係のない「眼横鼻直」の語が混入されるなどの改悪があるというのだった。これはかつて石井先生から頂戴した「『永平略録』考  十二巻『正法眼蔵』と関連して」(『財団法人松ヶ丘文庫研究年報』第11号、1997年3月)という論文でも指摘されていた問題である。

 

 『永平広録』10巻が、無外義遠(生没年不詳、中国南宋代の僧、如浄さまの法を嗣ぐ。つまり道元禅師の兄弟弟子にあたる)によって『永平略録』一巻に縮小編集された際に、道元禅師が中国宋代禅と訣別、「非連続」の教えを説かれたところが削除されてしまい、宋代禅と「連続」の教えのみのものに改悪されてしまった。その改悪された『永平略録』を参考にして校訂されたものが卍山本(流布本)『永平広録』なのである。
 石井先生は

 「私は宋代禅とは思想史的には〈非連続〉であるところにこそ道元禅の特色があり、道元の晩年の大きな変化とみる。それ故に、このように道元禅の特色が見失われたことは、日本の曹洞宗史の上で不幸なことであったというのが、私の結論である。/よって『永平略録』を継承する卍山本は、害のみあって、これを道元の著述として利用するのは、むしろ避けるべきだと私は思うものである」

 と断言されている。

 

 この石井先生の「『永平広録』成立考」というご論考を頂戴する数日前、東雲寺宛に送られて来たダイレクトメールの中に「やさしい仏教講義 〈当たり前〉こそが素晴らしい   〈眼横鼻直〉の教え」(ユーキャン出版事業部『やすらぎ通信』2018年秋冬号)があったのを思い出し、雑誌や新聞紙を積んでおいた中から探し出して改めて読んでみた。

 

 今回取り上げたのは、曹洞宗の開祖・道元禅師の言葉です。
 「目は横に、鼻は縦についているということに気づいて、余計なことに惑わされることがなくなった」
 日本での修行に飽き足らなかった道元禅師は、より深い仏さまの教えを求めて、当時は宋の時代だった中国に渡り、各地を巡った末に生涯の師と仰ぐ如浄禅師と出会われました。如浄禅師のもとで修行を積んだ道元禅師が、日本に帰国して述べられたのが、冒頭の言葉です。
 はるばる中国まで渡って気づいたのは、目は横に、鼻は縦についているということだった。道元禅師はそうおっしゃっているのです。
(後略)

 

 これが著名な師家(学徳のある禅僧)A師の講義録の冒頭部分である。ただし、文章の最後に「文責:編集部」とあるので、編集部が勝手にまとめた講義録か? 演題も編集部のでっち上げか?
  道元禅師の主張と関係のない「眼横鼻直」を道元禅師の教えとするような「講義」は、断じて講義などではないとだけは言える。

 

 なお、「『永平広録』成立考」の後半で石井先生は、「門鶴本」にも古い形を失っているところがあるという指摘をされる一方で、『永平広録』は晩年の道元禅師の主張として重要視すべきだということを改めて述べておられる。
 石井先生の誠に親切なご教示に感謝申し上げたい。



2018.12.16 Sunday 15:01
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お彼岸に東雲寺がパワースポットに

 お彼岸とは、ご存知のように春分・秋分の日をお彼岸の中日とし、その前後各3日間、合わせて7日間の「仏教週間」である。
 東雲寺では毎日夕刻に大梵鐘を9回撞いている(曹洞宗では「9声」という数え方、言い方をする)。かつては春彼岸の中日から夏時間ということで午後5時半に、秋彼岸の中日から冬時間ということで4時半に鐘を撞いていた。10数年前からだと思うが、町田市の子ども生活部児童青少年課から「愛の鐘(梵鐘)の打鐘時刻変更のお願いについて」という協力依頼があり、防災行政無線のチャイム放送と同じ時刻に合わせ3月1日からは5時半、10月1日からは午後4時半に鐘を撞くようにしている。外で遊んでいる子どもたちに暗くなる前にお家に帰りなさいということのようだ。


 毎日夕方、鐘撞きに行く前に本堂の戸締まりをしながら、釈迦誕生仏堂の扉を閉じて鍵を掛けるため本堂を横切る。このとき、境内や参道の桜に木の葉がない春彼岸の時季に限られるが、東雲寺の表参道の方に目を向けると、真西に伸びる参道の先に夕陽が沈むのが見える(写真、東雲寺の表参道の先に夕陽が沈む)。反対方向の本尊さまをお祀りする須弥壇の方へ視線を移すと、本堂のガラス戸からまっすぐに陽の光が射し込んで真正面から照らされていて、東雲寺の本堂が真西向きに建てられていることを実感する。けれども、つい先達てのことだが、地元成瀬のことに関しては自他共に認める〈物知り〉の方から「東雲寺が西向きということを住職さんから聞いて初めて知りました」と言われた。意外に思うかも知れないが、永くお寺をお支えくださっている古くからのお檀家さんでも、東雲寺が西向きであることをご存じの方はそんなに多くない。


 現在の東雲寺の本堂は明治43(1910)年に再建されたものだが、文化・文政期(1804〜29)に幕府によって編纂された『新編武蔵風土記稿』に「本堂ハ八間半ニ七間西向キナリ」とあり、もとの本堂も西向きで現在の本堂と同じ大きさだったことが分かる。数百年前、現在の場所に東雲寺を建てようとした当時の僧侶や成瀬の人々が、「西」を意識してお寺を建立したと思われる。
 仏教の宇宙観、世界観で「西」と言えば「西方浄土」を思い浮かべる。西方浄土は、人間界の西方、十万億の仏土を隔てたところにある阿弥陀仏を教主とする仏国土で、西方安楽国、西方極楽、西方十万億土などとも言われる。太陽が真西に沈む春秋の彼岸に、仏教の教えを学び、その教えに遵って修行し、西方浄土を心に念ずると良いとされている。今風に言えば、お彼岸の夕刻にパワー・スポットになるお寺として東雲寺が建立されたと考えられるのである。
 「彼岸」に関わる道元禅師の説示が『正法眼蔵』「仏教」の巻にある。

 

  「波羅蜜」といふは、彼岸到なり。彼岸は古来の相貌蹤跡にあらざれども、到は現成するなり、到は公案なり。修行の彼岸へいたるべしとおもふことなかれ。彼岸に修行あるがゆゑに、修行すれば彼岸到なり。この修行、かならず偏界現成の力量を具足するがゆゑに。

 

 意訳すると「波羅蜜(梵語 pāramitāパーラミターの音訳、〈到彼岸〉〈度〉と意訳する。一般的には迷いの世界から悟りの世界へ到達するという意味)というのは彼岸が到来していることである。彼岸はこれまで心のはたらきによって存るものと見て来た姿形や跡形ではないけれども、彼岸の到来が現前に成就するということであり、到来しているのは普遍的な真理である〈さとり〉の世界である。坐禅を中心とした修行によって彼岸に到達するのだろうと思ってはならない。彼岸にあって坐禅修行しているのだから、坐禅を中心とした修行すればそこに彼岸が到来しているのだ。この坐禅修行は、必ず普遍的な真理である〈さとり〉の世界が現前に成就する力を具えているからである」というような意味の教えだと思う。
 坐禅修行は有り難い。彼岸の坐禅はさらに有り難い。



2018.03.20 Tuesday 22:09
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百歳の他生をも度取すべきなり

 『正法眼蔵』「行持」の巻の中に「たとひ百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の他生をも度取すべきなり。この一日の身命はたふとぶべき身命なり、たふとぶべき形骸なり」という説示があり、明治期に編纂された曹洞宗宗典『修証義』にも取り入れられている。これを春日佑芳先生(1929年3月〜2002年12月)は次のように解釈されている。


  たとえこれまでの百歳の日月は、世俗の仕事に追いまわされてきたにしても、その中にあって、もしこの一日の行持における、諸仏の命を体得するならば、これまでの一生の、百歳の命とは何であったかを体得するのみではなく、さらに百歳の他生にもわたり、のちの世の菩薩に受け継がれる自己の命をも、体得できるであろう。この一日の身命は貴ぶべき身命である、貴ぶべき身体である。

 

  春日先生は尊敬すべき誠実な哲学者であり、道元禅師研究者だった。私が先生のご指導を頂戴したのは晩年の10年間だったが、そうした中で先生の口から発せられた言葉に、はッとして思わず先生のお顔を見るようなことが何回かあった。そのひとつが「哲学するというのは根本からすべてを疑うということであって、□□さんのはそうではないから」というものだった。

  先生が仰っていた「哲学する」という意味を私なりに理解したように思えたのは、先生ご逝去後、東雲寺坐禅会で『正法眼蔵』を少しずつ読み進める中で、先生が畢生の書と仰っていた『正法眼蔵を読む』全6巻(ぺりかん社)を参照していたときだった。

 かつて私が曹洞宗宗務庁在職当時に、春日先生にお願いして執筆いただいた檀信徒向けのパンフレット『この一日は宝石よりも貴い』(曹洞宗宗務庁、1994年4月)を改めて読んでみると、そこにも次のような文章があった。

 

   どのような世界を心に見ているかは、その人の行動をもって言う。その意味で、心は行動にある。心と身をもってする行動とは、切り離すことはできない。「身心一如」なのである。「修証一等」(修行と証の心とは等しい)というのも、またこのことである。とすれば、行動を同じくするものは、心を同じくすることになる。これは、同じ菩薩道の中にあって修行するものは、同じ証(さとり)の心をもって生きるということである。だから道元禅師は、「諸仏と同じく、菩薩道の中に生き抜くとき、自分は諸仏と、その心を同じくして生きているのだ」と語ったのである(これを「同修・同証」という)。

 

 春日先生が確信された、こうした道元禅師の「身心一如」「修証一等」の考え方をもとにして、冒頭に引用した説示の中で注目したいのは「百歳の他生をも度取すべきなり」である。

 「他生」とは今生(この世に生きている間。この世。現世)からみて、前世(過去世)や後世(未来世)のことであるから、たとえば

 「後生で百歳の命をも救えるはずのものである」(盒狂陳訳)

 「来世の百歳をも彼岸に渡すことになるはずである」(森本和夫訳)

 「他の百歳の生涯をも済度するはずである」(水野弥穂子訳)

 「前世や後世などの他の百歳の生涯をも救済することになるだろう」(拙訳)

 

 などという意味になる。文字面上はこうした解釈で許されるかも知れない。が、この道元禅師の説示は私たち坐禅修行者(菩薩)にとってどういうことなのかが臍落ちしなければ意味がない。
 春日先生はこのところを「百歳の他生にもわたり、のちの世の菩薩に受け継がれる自己の命をも、体得できるであろう」と解釈されている。そして前出のパンフレットの中で春日先生は「同じ修行の中に、同じ証の心があるのだとすれば、菩薩道に生きている、いまの自己の心も、また後の世の菩薩たちに、そのまま受け継がれていくことになるだろう。このようにして自己の心は、死後もなお、後の世の菩薩たちの心の中に、いつまでも伝えられていく。こう道元禅師は信じていた」としておられる。



2017.11.20 Monday 10:57
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合掌の仕方(道元禅師『赴粥飯法』による)

  東雲寺仏教講座「『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』を読む」を開催している。いつもは毎月第四日曜日の午後開催なのだが、5月の第四日曜日は所沢市薬王寺さまの結制法要に随喜参列のため、第三日曜日5月21日開催となった。
  『赴粥飯法』とは禅の修行道場などでお粥やご飯をいただくときの作法ということだ。講座で使用するテキストは道元禅師(1200〜53年)が越前(福井県)永平寺において書き示されたと考えられている著作である。入堂法(にゅうどうほう=僧堂〈坐禅堂〉に入るときの作法)、上牀法(じょうしょうほう=各自の坐位に上がる作法)・下鉢法(あはつほう=応量器〈修行者が携帯する食器〉を高いところから下ろす作法)・展鉢法(てんぱつほう=応量器を展開し、入れ子状に重ねられた五つの小鉢などを並べる作法で、受食の用意をすること)・行食法(ぎょうじきほう=給仕人が食物を配る作法)・受食法・洗鉢法などが細かに丁寧に示されている。
食事に関する作法集なのだが、僧堂(坐禅堂)への入り方や合掌の仕方などが具体的に書き示されているので、いくつか紹介したい。
 まず、最初に僧堂(坐禅堂)へ入るときの注意事項である。原漢文だが、書き下し文にする。


  大衆は一時に入堂す。入堂の間、黙然として行き、点頭語笑することを得ず。一時に入堂し、堂に在りては言語説話することを得ず。唯だ黙するのみ。


 修行者たちは一斉に僧堂(坐禅堂)に入る。入堂するときは黙々として行き、頷き合ったり、話をしたり、笑ったりしてはいけない。一斉に入堂した後は、僧堂(坐禅堂)内で話をしてはいけない。ただ黙っている、という教えである。
 次に合掌の仕方と僧堂(坐禅堂)への入り方。


  入堂の法。合掌を面前に欧欧篤る。合掌するには、指頭は当に鼻端に対すべし。頭低るれば指頭も低れ、頭直ければ指頭も直し。頭若し少しく斜めなれば、指頭もまた少しく斜めなり。其の腕は胸襟に近づかしむること莫れ。其の臂は脇下に築かしむること莫れ。

 前門より入るには、上下間の者、並びに南頬より入る。先ず左足を挙げて入り、次に右足を入れて行く。北頬並びに中央より入らざる所以は、蓋し住持人を尊崇するならん。住持人は当に須らく北頬並びに中央より入るべし。若し中央より入るには、先ず右足を挙ぐるが乃ち正儀なり。


 僧堂(坐禅堂)への入り方。顔の前に手を合わせ合掌して入る。合掌は、指先が鼻の高さになるようにする。頭を下げるときは指先も同様に下げる。頭がまっすぐのときは、指先もまっすぐであり、頭を少し傾けるときは指先も少し傾けるのである。合掌のときの腕は胸や襟元に近づけてはいけない。その臂は脇の下につけず、横に張るようにする。
 坐禅堂の正面から入る場合、坐禅堂内の中央より右側、あるいは左側の座位に坐る人は、入口の左側(南側)から入るのである。このときまず左足から入り、次に右足を入れる。入口の右側(北側)とか中央から入らない理由は、住職を尊ぶためである。住職は入口の右側や中央から入るのである。中央から入る入るには、まず右足から入るのが正しい方法である。
 さらに坐禅する場所に上がる法。


  上牀の法。隣位に問訊す。所謂、牀座に向いて問訊すれば、則ち上下肩に問訊するなり。順に上肩を転じ〈上肩とは左肩なり〉、次に対座に問訊す。(後略)


 僧堂(坐禅堂)内の禅牀(ぜんしょう=坐禅する場所・座位)への上がり方。僧堂の坐位で自己の左右両隣り〔の人〕に合掌し頭を下げて挨拶する。このとき、自分の坐位に向かって挨拶すると、左右両隣り〔の人〕に挨拶したことになる。次に左側に転じて、向かい側の坐位〔の人〕に合掌して頭を下げ挨拶するのである。
 40年ほど前に『赴粥飯法』を読んでいて、臂を張って合掌し、その指先が鼻の高さになるようにという教えを目にして、師匠や先輩たちが言っていた合掌の仕方は、このことだったかと納得した。



2017.05.27 Saturday 12:47
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坐禅は「無になる」「何も考えない」ではない

 町田市内にある霊園なのだが、東雲寺が町田市の南端にあり、その霊園が市の北端にあって、車で4、50分の距離のところにある。40年ほど前らしいが、当時、故人が気に入って定めた〈終の棲家〉とのことだった。
 16、7年前に、当時、東玉川学園にお住まいだったYさんが東雲寺坐禅会に参加され、その後にYさんのご両親も参加くださった。そうしたご縁でYさんからお父上の葬儀の依頼がありお勤めした。さらに四十九日忌納骨埋葬法要を町田市北端の霊園で行うことになった。
 この日がちょうど第三日曜だったので朝七時から坐禅会、その後に庭掃除や筍掘りをして、朝食を摂り、シャワーを浴び、着替えて、お檀家さんの年回法要を一座勤める。その後にお迎えに来てくださったYさんの車で霊園に向かう。
 運転はYさんのご子息、故人のお孫さん。
 車が走り出して間もなく、Yさんがセカンドバックから東雲寺坐禅会の会員証(胸につけることができる名札)を取り出し、「父の遺品を整理していたら出てきました」と故人の名札を見せてくれた。また、「私が参加していたときは30名くらいでしたが、最近は多くの方が参禅されているようですね」とか、「坐禅会では『正法眼蔵随聞記』などを読んでましたが、今もなさってるんですか?」などと話かけてくださった。
 この日の坐禅会には64名の方が参加くださったことや現在は『正法眼蔵』「行持」の巻を拝読しているなどとお応えした。
 すると車の助手席に坐っていたYさんのお連れ合いが、「坐禅って、無になることですよね。何も考えないようにするんですか」などと仰った。
 実は車が出発して間もなく、拙は車の進路がとても気になっていて、Yさんからの話しかけに対しても上の空だった。北に向かうべきところを西へ西へと進み、町田市の中心街、つまりわざわざ車が混んでいるところに向かっていたのである。カーナビゲーションシステムで走っているらしいのだが、どう考えても遠回りだった。そんなことを考えていたので、Y夫人の率直な大問題の問いかけに少々まごついてしまった。
 東雲寺坐禅会では折にふれて申し上げて来たことだが、坐禅は何も考えないとか無になるというものではない。拙が坐禅会参加者の方たちにお伝えしたいもっとも大事なことのひとつに坐禅は「息慮凝寂の経営などではない」という道元禅師の教えがある。「息慮凝寂の経営」の「息」はやめるということで、思慮をやめて無我無心になって静寂の世界を凝視することに力を尽くすという意味である。それはお釈迦さまはじめ歴代の祖師方が正しく伝えて来た仏教・禅の教えではなく、坐禅についての正しい理解ではないという道元禅師の教えなのである。
しかし、世間に広まっている「坐禅」のイメージは「無になる」「何も考えない」というY夫人の言葉通りなのだ。
 ようやく西向きから北向きへ変わった車の進路に気を奪われながら、「何も考えない」ということは、気を失うか死ぬ以外にはあり得ないということが碩学によってすでに指摘されている。また何も考えないということを考えるようなことになりかねないので、「何も考えない」は坐禅についての正しい理解ではないと応えた。
 さらに「無」ということについては、たとえば今、話をしているが、お互いに発した言葉が相手の耳に届くまでにはわずかな時間が過ぎており、過去の音声を耳にしている。目に映る姿も、わずかに過去の姿である。知覚される以前の〈そのもの〉を私たちは知り、確かめることができない。これは「無」ではなく「空」なのであり「縁起する」世界なのである。仏教はこの世のすべては諸行無常であり諸法無我だと説く。それは仏教の基本的な教えであり、宇宙間の真理だ。
 この真理を坐禅修行の中で心の奥底に静かに沈殿させ、定着させる。すると自ずと自己の有限性をしっかりと見定めることができ、自他に親切に、周囲に優しく、すべてを大切にしつつ生きることができるようになる。これが坐禅だとお話した。



2017.05.12 Friday 10:01
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東雲寺仏教講座「『典座教訓』を読む」を開催

 1月22日午後2時から東雲寺本堂において、仏教講座「『典座教訓』を読む」第6回を開催いたしました。

 今回、取り上げたところには、さまざまなエピソ−ドが下敷きになっている説示が多く、そうした逸話のいくつかを以下に紹介します。

 

潙山踢瓶(いさん てきびょう)

 潙山霊祐が百丈の典座だったとき、俗人の弟子・司馬頭陀(しばずだ)の意に契って大潙山に住することになり、百丈も霊祐に委嘱した。これを聞いて訝る上席の華林善覚に百丈は浄瓶を指し、「これを浄瓶と呼んではならんとすれば、なんと呼ぶか」と問うた。華林は「木切れとはいえません」と返答したが、霊祐は浄瓶を蹴飛ばして出て行ってしまった。

 

洞山麻三斤(とうざんまさんぎん)

  麻三斤は、一着分の、よった麻糸の分量。仏とは何かの問いに仏の衣の反物で答えたもの。麻三斤で仏の真実を何の抵抗もなく示したところに洞山守初の仏法の円熟振りがある。 (禅学大辞典)

 

阿育王の前生譚(あいくおうのぜんしょうたん)

  お釈迦さまが阿難を連れて王舎城で乞食の修行していたとき、沙(砂)遊びをしていた徳勝童子と無勝童子の二人が、お釈迦さまの姿を見て喜び、徳勝童子はお釈迦さまに沙を糗に見立てて供養し、無勝童子は随喜し合掌し偈を唱えた。お釈迦さまは阿難に「この童子は私の入槃涅槃して百年後に、阿育という転輪聖王になり、仏の教えをもって国を治め、多くの仏塔を建立して供養し、衆生を安楽にするであろう」と予言し、童子から供養された沙をお釈迦さまが経行するところに塗って敷きつめるように指示した。

 

長者窮子(ちょうじゃぐうじ)

 家出をして長い間放浪し困窮した男「窮子」を、父親である長者が見つけ、彼を掃除人として雇い入れ、次第に後継者としてふさわしい人物に育成した後に、父親であることを明かして財宝を譲る。仏が機の熟するのを待って衆生に教えを説いて救うことにたとえたもの。

 



2017.01.23 Monday 17:52
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他は是れ吾れにあらず 更に何れの時をか待たん

   仏教講座で読んだ『典座教訓』の一部を以下に紹介したい。
   道元禅師が中国留学中に出会った老典座とのやりとりで、道元禅師ご自身がこうした経験によって、自分はいささか修行とは何かを会得することができたと述べている有名なエピソードの一つである。


  山僧、天童に在りし時、本府の用典座、職に充てらる。予、斎罷る因り、東廊を過ぎて超然斎に赴けるの路次、典座は仏殿の前に在りて苔を晒す。手に竹杖を携え、頭には片笠も無し。天日は熱く、地甎も熱きも、汗流して徘徊し、力を励まして苔を晒し、稍々苦辛するを見る。背骨は弓の如く、竜眉は鶴に似たり。
  山僧、近前づきて、便ち典座の法寿を問う。座云う、「六十八歳なり」と。山僧云う、「如何んぞ行者・人工を使わざる」と。座云う、「他は是れ吾れにあらず」と。山僧云う、「老人家、如法なり。天日且つ恁のごとく熱し、如何んぞ恁地にする」と。座云う、「更に何れの時をか待たん」と。山僧、便ち休す。廊を歩むの脚下、潜かに此の職の機要たるを覚る。 (講談社学術文庫、原漢文)


   これを現代語訳しよう。
   私(道元禅師)が中国に留学し太白山天童景徳寺(中国浙江省寧波の東方にある禅寺)において修行していた折、地元寧波府出身の用という方が典座の役職に任じられていた。
   私が昼食を終えて、東側の廊下を通って超然斎という建物に行こうとしていた途中、用典座が仏殿前で海藻(苔)を干していた。典座は竹の杖をついており、頭には日よけの小さな笠さえかぶっていなかった。
   太陽がジリジリと照りつけ、敷き瓦も焼けつくように熱くなっていたが、そうした中で典座は汗を流しながら行きつ戻りつして歩き回り、一所懸命に海藻を干していて、相当に辛そうに見えた。〔用典座の〕背骨は弓のように曲がり、立派な眉は鶴のように白かった。
   私が〔典座〕近づいてお年を尋ねた。典座が「六十八歳になった」と応えた。
   私が尋ねた。「どうして行者(禅の修行道場において諸種の役僧のもとで身の回りの世話や用務をする僧)や人工(寺院内で諸雑事のために雇われた在俗の人)を使って作業をさせないのですか?」と。
   典座が応えて言った。「他の人がしたことは、自分の修行にはならない」と。
   私が尋ねて言った。「ご老僧が仰ることは理に適っております。しかし、この焼け付くような強い陽射しの中です。どうして今そのようにしなければならないのですか?」
   典座が応じた。「〔海藻を干すにはこの強い陽射しの中が最適であって〕この時をはずして何時やろうというのか」と。〔これを聞いて〕私は何も言うことができなかった。私は廊下を歩きながら心の中で典座の役職が非常に重要なものであることが分かった。


と、いうようなエピソードである。
    用典座の名前は「○用」で、名前の下の字だけで呼ぶことが禅寺での礼儀で、相手に敬意を表す呼び方なのである。
  「苔」をキノコとする説もあるが、中村璋八・石川力山・中村信幸訳注『典座教訓・赴粥飯法』(講談社学術文庫)の語注によると「海藻の一種で、水ごけ、青海苔の類。干して保存し、乾苔ともいう。寧波附近は海辺にあって海産物が多く、ここの人々は古くから海藻を好んで食していた」とある。


   坐禅を中心にした修行は、いつでも、どこでも、他ならぬ私自身が心を傾けて、他者にはもちろん自身にも親切に行うものだ。道元禅師の日常生活のすべてが仏道修行という教えである。
 



2016.07.31 Sunday 18:17
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随聞記を読み終えました
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 2012年1月から読み続けて来た『正法眼蔵随聞記』、2016年3月27日の 東雲寺仏教講座「『正法眼蔵随聞記』を読む」第36回で読み終えました。夏の3〜4ヵ月間は東雲寺文化講座を開催して来ましたので、4年間余、熱心な参加者の皆さんのおかげで改めて道元禅師の教えを学習することができました。

 4月からは『典座教訓』を拝読します。
 『典座教訓』の中には、道元禅師が修行のために訪れた中国で、二人の禅寺の典座(台所の主任。炊飯、料理を司る僧侶の役職名。重要な役なので高潔の僧が選ばれる)との強烈な出会い、道元禅師の修行観を大きく変えた出会いなどが感激をもって記されています。


2016.03.29 Tuesday 22:02
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「正法眼蔵随聞記を読む」講座を開催
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 2月28日(日)15時〜16時30分、東雲寺仏教講座「『正法眼蔵随聞記』を読む」第35回を開催しました。
 今回は以下に掲げる第6巻18章段〜21章段を拝読いたしました。
 なお、青文字は柚木の語注。水野弥穂子先生、池田魯参先生などの『正法眼蔵随聞記』訳注を参照しています。


  18  大恵禅師の云く
 示ニ云ク、大恵禅師の云ク、「学道はすべからく人の千万貫銭をおへらんが、一文をももたざらん時、せめられん時の心のごとくすべし。若しこの心有らば、道を得ル事易し。」と云へり。
 信心銘ニ云ク、「至道かたき事なし、但揀択を嫌ふ。」ト。揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。揀択ノ心を放下すと云フは、我を離るるなり。所謂我ガ身仏道をならんために仏法を学する事なかれ。ただ仏法のために仏法を行じゆくなり。たとひ千経万論を学し得、坐禅床をやぶるとも、こノ心無くは、仏祖の道を学し得べカラず。ただすべからく身心を仏法の中に放下して、他に随うて旧見なければ、即ち直下に承当するなり。

    大恵禅師  大慧宗杲=1089〜1163年。中国、宋代の臨済宗の禅僧。圜悟克勤の法を嗣ぐ。看話禅の大成者。
    千万貫銭をおへらん   千万貫の借金を背負った。
    信心銘   中国禅宗第三祖鑑智僧璨(?〜606年)の著。禅寺でしばしば読誦される四言146句の漢詩で仏教の教えの真髄を表現したもの。
    至道かたき事なし・・・  『信心銘』の冒頭にある「至道無難、唯嫌揀択」のことで、無上の大道、仏道も難しいことはない。ただ選り好みすることがいけない。
    直下に   そのままに。少しの余念をまじえずに。
    承当   会得。領得すること。引き受けて責任を持って担当すること。
    床をやぶる   僧堂(坐禅堂)内の坐る場所の床を破るほど坐禅をすること。



  19  春秋に云く
 示ニ云ク、春秋に云く、「石の堅き、是レをわれどもその堅きヲ奪フべからず。丹のあかき、是レをわれどもそノあかき事を奪フべからず。」ト。
 玄沙因に僧問フ、「如何ナルカ是レ堅固法身。」沙云ク、「膿滴々地。」ト。けだし同じ心なるべきか。

    春秋   呂氏春秋。孔子が編纂したという『春秋』にならって、中国戦国時代末期、秦の呂不韋が食客を集めて作成させたといわれる。百科全書的史論書。26巻。
    「石の堅き、是レをわれどもその堅きヲ・・・」  『呂氏春秋』「清廉」に「石は破るべきなり、而も堅を奪うべからず。丹は磨くべきなり、而も赤を奪うべからず」とある。
    丹  硫黄と水銀との化合した赤土。辰砂。また、オレンジ色の日本画顔料。古くから鉛に硫黄と硝石とを加えて焼いて作った四酸化三鉛。鉛丹。
    玄沙   玄沙師備(835〜908年)。中国の唐末五代の禅僧。雪峰義存の法を嗣ぐ。
    堅固   物のかたくしっかりしていること。転じて、心がしっかりと定まって動かないこと。すこやかなこと。達者。
    法身   仏門に入って髪を剃り法衣を着た僧体。僧侶の身。
    膿滴々地   体中、膿がポタポタたれるような姿。



  20  古人云く知因識果の知事に属して
 示ニ云ク、古人云ク、「知因識果の知事に属して、院門の事すべて管ぜず。」ト。言フ心は、寺院の大小ノ事、すべからク管ぜず、ただ工夫打坐すべしとなり。
 また云ク、「良田万頃よりも薄芸身にしたがふるには如カず。」
  「施恩は報をのぞまず、人に与へておうて悔ユる事なかれ。」
  「口を守ル事鼻のごとクすれば、万禍及バず。」と云へり。
  「行堅き人は自ラ重んぜらる。才高き人は自ラ伏せらる。」
  「深ク耕して浅く種ウる、なほ天災あり。自ラ利して人を損ずる、豈果報なからんや。」
 学道の人、話頭を見る時、目を近ヅけ力をつくして能々是レを看ルベシ。

    知因識果   因果の道理をよく知っていること。
    知事   禅寺で、寺院の運営をつかさどる責任ある六つの役職。都寺(寺院の一切の事務を監督する役職)・監寺(寺内の事務を監督する役職)・副寺(禅宗寺院で会計を担当する役職)・維那(寺院で僧に関する庶務をつかさどり、またそれを指図する役職)・典座(寺院で大衆の食事をつかさどる役職)・直歳(寺院で伽藍の修理、山林・田畑などの管理、作務を管掌する役職)の総称。
    院門の事   寺院の運営、経営に関すること。
    工夫打坐   坐禅修行に精進すること。
    頃  中国で用いられた土地面積の単位で耕地百畝。実面積は時代によって異なるが、およそ六ヘクタール、一万八千坪前後。
    薄芸   つたない一芸。わずかな技能。わずかな芸。
    話頭   祖師方の言葉や〈さとり〉の機縁などを記した文言。古人が示した坐禅修行者の規範となる語句である「古則」や坐禅修行者に対して言葉で与える課題である「公案」などのこと。



  21  古人の云く百尺の竿頭に更に一歩を進むべし
  示ニ云ク、古人の云ク、「百尺の竿頭に更ニ一歩を進むべし。」ト。この心は、十丈のさをのさきにのぼりて、なほ手足をはなちて即ち身心を放下せんがごとし。
是レについて重々の事あり。
 今ノ世の人、世を遁れ家を出たるに似れども、行履をかんがふれば、なほ真の出家にては無きも有り。所謂出家と云フは、先づ吾我名利をはなるべきなり。是レをはなれずしては、行道頭燃をはらひ、精進手足をきれども、ただ無理ノ勤苦のみにて、出離にあらざるも有り。大宋国にも離レ難き恩愛をはなれ、捨テ難キ世財をすてて、叢林に交ハリ、祖席を経れども、審細にこの故実を知らずして行じゆくによりて、道をもさとらず、心をも明らめずしていたづらに一期をすぐすも有り。

    百尺の竿頭に更ニ一歩を進むべし   長沙景岑(生没年不明、中国唐代の禅僧。南泉普願の法を嗣ぐ)の頌に「百尺竿頭不動の人、然も得入すといへども未だ真となさず、百尺竿頭須らく歩を進むべし、十方世界これ全身」(『景徳伝灯録』巻十)がある。
    重々の事  理解や解釈に段階的なものがあるということ。
    行履   禅宗で日常一切の行為。修行之の経過、行状。
    名利  名誉と利得。名聞利養。名聞は名誉が世間に広まること。利養は利をもって身を養うこと。
    頭燃をはらひ   頭燃をはらう。頭に火がついているのを消す意。頭に燃えついている火は誰でも一刻の猶予もなく消すように、専一に仏道修行に精進することをいう。
    精進   ひたすら仏道修行に励むこと。


そノ故は、人の心のありさま、初めは道心をおこして、僧にもなり知識に随へども、仏とならん事をば思ハずして、身の貴く、我が寺の貴き由を施主檀那にも知られ、親類境界にも云ひ聞かせ、何にもして人に貴がられ、供養ぜられんと思ひ、あまつさへ僧ども不当不善なれども我れ独り道心も有り、善人なるやうを、方便して云ひ聞カせ、思い知らせんとするやうもあり。是レは言フニ足らざるの人、五闡提等の在世の悪比丘のごとく、決定地獄の心ばへなり。是レを物もしらぬ在家人は、道心者、貴き人、なんど思フもあり。
    施主  檀越の訳語。供養主。三宝を信じて財物を施す人。
    檀那   檀那波底の略。檀越、すなわち布施をする人を寺や僧の側からいう語。
    親類境界   親類と自分の勢力の及ぶ範囲の人。
    不当不善   無法な行い、悪い行い。
    五闡提   五人の悪比丘(修行僧)。闡提は一闡提のことで、icchantikaの音写。断善根・信不具足と訳される。仏法を信じることなく、成仏の素質を欠く者のこととされる。昔、怠け者でお経も読まない悪比丘が命をつなぐために坐禅修行のふりをして人々の供養を受けるなどの罪業を積んだ。そのため、八千劫というものすごく永い間、偽りによって供養を受けた罪の償いをしたという。


このきはをすこしたち出でて、施主檀那をも貪ラず、親類恩愛をもすてはてて、叢林に交ハり行道するも有れども、本性懶墮懈怠なる者は、ありのままに懈怠ならん事もはづかしきかして、長老首座等の見る時は相構へて行道する由をして、見ざル時は事にふれてやすみ、いたづらならんとするも有り。是レは在家にしてさのみ不当ならんよりはよけれども、なほ吾我名利のすてられぬ心ばへなり。
    叢林   禅林、栴檀林ともいう。禅の修行道場。樹木がたくさん群がって生えている林のことだが、修行僧が和合して一つ所に住することが樹林のように静寂であることから、禅の修行道場のことをいう。
    本性   生まれつき。
    懶墮   おこたる。なまける。無気力。
    懈怠   おこたる。なまける。怠り。
    長老  住職。住持・和尚を称する敬称。小比丘が大比丘を呼ぶ尊称。曹洞宗では立職以後転衣に至る時代の呼称。
    首座   禅の修行道場で修行僧の第一座に坐るもの。
    いたづらならんとする   なすこともなくしていること。


またすべて師の心をもかねず、首座兄弟の見不見をも思はず、つねに思はく、仏道は人のためならず、身のためなりと云ツて、我ガ身心にて仏になさんと真実にいとなむ人も有り。是レは以前の人々よりは真の道者かと覚ユれども、是レもなほ吾我を思ツて、我ガ身よくなさんと思へる故に、なほ吾我を離レず。また輅菩薩に随喜せられんと思ひ、仏果苦提を成就せんと思へる故に、名利の心なほ捨てらざるなり。
    心をもかねず   他の人の気持ちになって、その思惑を考えること。
    首座兄弟   首座や兄弟弟子。
    随喜   人の善事を見て随順・歓喜すること。
    仏果菩提   修行の因によって到達した仏の〈さとり〉の境界。


是レまではいまだ百尺の竿頭をはなれず、とりつきたるごとし。ただ身心を仏法になげすてて、更に悟道得法までものぞむ事なく修行しゆく、是レを不汚染の行人と云フなり。「有仏の処にもとどまらず、無仏の処をもすみやかにはしりすぐ。」と云フ、この心なるべし。
    不染汚の行人   修証一等、修行と〈さとり〉とを二つに見ないで仏祖がなさって来られた只管打坐の坐禅修行を護持・持続する修行者。
    有仏の処にも   趙州従諗は大衆に示した、「仏のところにも住まってはいけない。仏でないところもも急いで走り過ぎなさい」(『真字正法眼蔵』80) 

 


2016.02.29 Monday 11:45
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