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令和6年能登半島地震

 2024(令和6)年1月1日、朝8時半〜15時半の七時間ほど毎年恒例のことだが、東雲寺本堂で年賀客の挨拶を受ける。40組60人くらいのお檀家さん方である。昼食とトイレ以外は本堂に詰めて応対接客、近所に住む娘や孫たちにお茶出しの手伝いをしてもらった。毎年、ほぼ最後の頃に顔を見せてくださる檀家さんがお帰りになると、椅子やテーブルを片付け、掃除機をかけるなどをして、庫裡で娘たち夫婦や孫たちとの新年会を始める準備をしていた。
 家が大きくゆっくりとぐらぐら揺れた。

  16時10分、令和6年能登半島地震。
 はじめは情報も乏しくどういう状況か不明だったが、テレビの報道で能登半島東端の珠洲市が震源地、震度7が観測された地域もあり、大津波警報が出されたこと、さらに輪島市朝市通りでは大規模な火災が発生していることなどが分かって来た。
 輪島市門前町には大本山總持寺祖院がある。「祖院」とは、1321(元亨元)年、後に曹洞宗太祖とされる瑩山禅師(1264〜1325年)によって諸嶽山總持寺として開創され、福井県の永平寺とともに明治時代まで曹洞宗の大本山だった寺院である。1898(明治31)年の火災で七堂伽藍のほとんどを焼失したのを機に、1907(明治40)年に横浜の鶴見へ寺籍を移し、1911(明治44)年に大本山總持寺移転遷祖式を行い、門前町の元の場所に再建した寺院を「祖院」としたのである。この祖院が2007(平成19)年3月25日に起きた震度6強の「平成19年能登半島地震」により坐禅堂が倒壊寸前、本堂や廻廊の壁がはがれ柱なども大きく傾くなど甚大な被害を受けた。その後、全国の寺院、檀信徒などからの寄付と国の補助金による約40億円の工事費用と14年の歳月をかけた修復工事を経て、3年前の2021(令和3)年4月6日に總持寺祖院能登半島地震復興落慶式を行ったばかりだった。
 この17年前の能登半島地震の時には、圭室文雄先生(たまむろふみお・明治大学名誉教授)はじめ研究者の方たちが大本山總持寺祖院に収蔵されている数万点の古文書調査(2001年〜)をされている最中に地震に遭われ、先生方にお怪我はなかったが、調査を中断し金沢へ避難されるまでのたいへんなご苦労について、お話を伺っている。

 こうしたことから、この度の能登半島地震による祖院の被害を心配していたが、テレビの報道は当初は珠洲市や輪島市の断片的な情報ばかりで、輪島市内西部にある旧鳳珠郡門前町についての情報がまったくなかった。

 複数の友人からのラインでは耐震工事を行った建物は何とかもっているが、廻廊が全壊などの情報が寄せられた。

 数日後、民放の午前中のワイドショーで門前町總持寺祖院の被害の状況がレポートされ、戦国武将前田利家の妻お松の方をお祀りしている芳春院、廻廊、水屋が全壊、参道の石畳もめくれ上がっている様子が映し出された。

 その後、NHKのニュース、新聞報道などでも祖院副監院(寺院の総務担当)高島弘成師が国の登録有形文化財となっている17の歴史的な建造物すべてに被害がでているとの説明をする姿が報じられた。

 高島師は14年間、苦労を重ねてようやく形になったところでまた被害が出てしまった。耐震化したのになぜ、と思うところもあり、言葉にならない。今は復興のことは考えられないが、やるべきことを一つ一つやるしかないと話しておられた。なお、祖院の役僧や修行僧に怪我人は出ておらず、門前町の避難所での避難生活をしているとのことだった。
 内閣府「令和六年能登半島地震による被害状況等について」によると、1月20日14時現在の石川県を中心に北陸、中部、近畿の九府県における被害状況は以下の通りだ。

 人的被害

      死者232人(すべて石川県)

     重傷者263名(石川、新潟、富山)

      軽傷者762人

 住家被害

      全壊65棟

      半壊1026棟

   一部破損1万821棟

   床上床下浸水25棟

 石川県内断水約4万9990戸

  同     停電約6400戸

 これらはいずれも暫定値であって、被害の全容は未だ不明である。 

 



2024.01.21 Sunday 09:15
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大熊照夫監督作品『シリーズ映像でみる人権の歴史』

 『視聴覚教育』(日本視聴覚教育協会)2023年3月号に渡部実氏(映画評論家・日本大学藝術学部映画学科講師)の「『シリーズ映像でみる人権の歴史 第1巻〜第10巻』  日本における部落差別の歴史と構造を平明に描く」という映像作品の紹介文が掲載されていた。私の30年来の友人・大熊照夫氏(東映教育映像部映画監督)の作品に対する好意的と思われる評論だった。以下にその一部を紹介する。

 

 昨年、2022年(令和4年)は、日本に長く続いた部落差別の撤廃運動の一翼を担った団体、全国水平社が創立(1922年)されて100周年の年であった。今回ご紹介する「シリーズ映像でみる人権の歴史 第1巻〜第10巻」(2022年/東映教育映像部/プロデューサー・中鉢裕幸、大高彰/構成・監督・大熊照夫)は日本人の意識下でいまだに続く差別の問題を歴史を遡って検証し、解説した企画作品である。1巻から10巻までの大部の構想であるが、主な鑑賞対象者は小学生、中学生となっている。差別という人権を考える上でもっとも大事な問題を映像で見せる。しかも教育用に製作することには、製作側によほどの配慮があってしかるべきだが、このシリーズは長年、教育映画に携わってきた東映教育映像部の作品であり、さすがに構成、内容はしっかりしている。
 ここで全10巻の大まかな見出を紹介をすれば、第1巻 東山文化を支えた「差別された人々」。2巻 江戸時代の身分制度と差別された人々。3巻 近代医学の基礎を築いた人々。4巻 明治維新と賤民廃止令。5巻 渋染一揆を闘いぬいた人々。6巻 日本国憲法と部落差別。7巻 水平社を立ち上げた人々  人間は尊敬すべきものだ  。8巻 ひとと皮革(かわ)の歴史。9巻 芸能と差別  文化を育み育てた人々  。10巻 差別のない社会へ  私たちはどう生きるか  。(中略)
 差別の歴史を語ることはそのまま日本の歴史を語ることにも通じてくる。シリーズの最後、第10巻「差別のない社会へ  私たちはどう生きるか  」では時代が現代となり、若い人たちが登場。未だに当事者たちが気にかけている差別意識などに対するさまざまな意見を聞き出している。
 そのようにこのシリーズ全10巻は小学生、中学生向きにとどまらず、私たち一般社会人が見てもあらためて差別と日本の歴史について熟考を促すレベルの高いシリーズに仕上げられている。

 

  『シリーズ映像でみる人権の歴史』の第1巻は2012、3年ころに撮影が始まったように記憶している。このシリーズは、上杉聰(評論家、部落史研究家、関西大学講師)、外川正明(同和教育、京都教育大学名誉教授)両氏の企画・監修で、粗編の段階などで両先生に観てもらい、例えば「銀閣寺の上空に月が欲しい」というような、さまざまな無理難題を突きつけられ、大熊監督がぼやいていたことを思い出す。両先生間で意見が分かれるようなことがあったり、シリーズの途中で頓挫するかと思うような事態もあったようだ。が、その度にプロデューサーや大熊氏らが粘り強く働きかけ、とりくみを続けて、10年ほどの時間をかけて10作品のシリーズを完成させた。
 曹洞宗宗務庁企画の人権啓発映像でも1996年の『宗教と部落差別問題  身元調査 その実態を問う』をはじめ「悪しき業論」「差別戒名」「仏教とハンセン病」「狭山事件」などを扱った大熊氏の監督作品が、これまでに12作あり、さらに東京都や荒川区などの企画、東映教育映像部のものには、部落差別問題をはじめ心身障がい者差別、児童虐待など、さまざまな人権・差別問題に関する多くの啓発映像作品がある。これらは映画業界、教育映像の製作現場をとりまく環境、厳しい状況の中にあって、大熊氏の部落差別問題をはじめとした人権・差別問題への地道なとりくみの一部である。
 渡部氏の評論を読んで、私は大熊氏へ慰労とお祝いのEメールを送った。



2023.04.16 Sunday 17:41
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東雲寺の被災地支援、人道支援等の募金活動にご協力いただきありがとうございます

 募金にご協力いただきありがとうございました。
 東雲寺に寄託いただいた募金は、それぞれの被災地にお届けしました。
 今後も継続して募金活動をいたします。

 

東日本大震災義援金 2022年7月4日現在
  5,394,787円


ウクライナ人道支援募金 2023年4月13日現在
  346,308円


トルコ・シリア大地震 2023年4月13日現在
   50,000円


熱海土石流災害 2021年12月27日現在
  128,906円


令和元年台風19号等災害 2019年12月22日現在
  270,808円


平成30年7月豪雨・台風21号災害 2019年1月4日現在
  209,641円


北海道胆振東部地震災害 2019年1月4日現在
  110,000円


九州北部豪雨 2017年9月1日現在
   51,039円


熊本地震 2016年7月25日現在
  140,000円



2023.04.14 Friday 11:26
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沢知恵著『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』「音楽の力と入所者の思い  抑圧と解放のはざまで」

  以前のブログに貞明皇后(1884〜1951年、大正天皇の皇后)の短歌「つれづれの 友となりても慰めよ 行くことかたき われに代りて」にメロディが付され、全国十三ヵ所の国立ハンセン病療養所で歌われていたことを紹介した。この『つれづれの』を歌っていた入所者の方たちの思いや音楽の影響力についての考察が、沢知恵著『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』(岩波ブックレット、2022年11月)の最後部の「音楽の力と入所者の思い  抑圧と解放のはざまで」に記されていた。長くなるが以下に引用紹介する。

 

  ことばが声によって発せられ、さらにメロディーがついてうたになるとき、ことばの意味は心の奥深くに刻みつけられます。
 「意味もわからず、みんながうたうから、ただうたった」。知念正勝さん(柚木注=1931年生まれ、沖縄県の国立療養所宮古南静園に1951年入所、65年に退所)は、そういいました。
  谷川俊太郎(1931〜 )『詩ってなんだろう』(2001、筑摩書房)に、短歌などは「こえにだしてよんでみると、いみはわからなくてもきもちがいい」とあります。もちろん、それはことばを音にする喜びについていっているものですが、意味のよくわからないことばを気持ちよくうたううちに、〈甘いヴェール〉が私たちを包み込んでしまうことを、ハンセン病療養所の園歌は教えてくれます。式典や集会では、子どもたちを前に立たせ、《つれづれの》や園歌を大きな声でうたわせました。その子どもたちのうた声に合わせて、おとなの入所者、職員もうたい、「一大家族」はつくり上げられていったのです。
  「何十年もうたっていないのに、歌詞を見なくてもパッとうたえるのはなぜ」とたずねると、「たたきこまれたからな」「それほどまでに、うたいこんだということよ」と入所者のみなさんは口々にいいました。
 1948年に長島愛生園に入所した中尾伸治さん(1934〜 )は、《愛生少年団歌》にあった「祖国浄化」という歌詞について、次のように語ってくれました。
 「そこであきらめさすというか。おれは「祖国浄化」のためにここに来たんや、と思うようにしとった」。
 これを聞いて私は胸がしめつけられると同時に、音楽がいとも簡単に人の、とりわけ子どもの心と思考を支配してしまうおそろしさを思い知らされました。歴史をふり返れば、ナチスの収容所において人を立たせ、歩かせ、ガス室へと送り込むために奏でられた音楽、日本が戦時中にラジオ放送で戦意高揚のために広めた国民歌謡、中国の文化大革命期にプロパガンダで統制された音楽など、多くの例を思い起こすことができます。

 

 さらに「不思議なのは、入所者が作詞した園歌の歌詞にも〈一大家族〉〈民族浄化〉のようなことばが出てくることです。はじめ私は強い衝撃を受けました。上から押しつけられたのならまだしも、ほんとうに入所者自身が心からそう思ったのか」という問いを立て、そして入所者が持つに至った二重意識についての分析を記している。

 

 終生隔離の療養所で生きるということは、抑圧され、排除され、名前と存在を消されながら、それでも「存在」しようとする意思によって、引き裂かれた二重の意識をもたざるをえなかったということです。「一大家族」「民族浄化」は心にもないことではなく、そう思わないでは生きのびることができなかったのです。

 

 ここの「名前と存在を消され」とは、次のようなことである。「無癩県運動」や「強制隔離政策」の継続などによって、ハンセン病は遺伝病や恐ろしい伝染病と思わされ、信じさせられて来た。そのため家族にハンセン病者がいると知れると、親兄弟姉妹も迫害に遭い、その土地で生活することができなくなり一家離散になるようなことさえあった。こうしたことから、ハンセン病者は、家族に迷惑をかけまいとして療養所入所後に仮名を使い、社会に存在しない「存在」になっていたのだ。



2023.03.30 Thursday 08:19
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3・11 鳴鐘18声

 3月11日14時35分、本堂前で住職とK和尚とで「大悲心陀羅尼」を諷誦、東日本大震災犠牲物故者に回向しました。そして発災時刻の14時46分、大梵鐘を18声打ち鳴らし震災犠牲物故者諸精霊の慰霊供養と被災地の復興をお祈りしました。

 毎年、空手のY先生が参列くださっており、今年もご参列でしたので、先生にも大梵鐘を撞いていただきました。

 写真はK和尚、右隅にY先生。



2023.03.11 Saturday 21:25
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『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』(その2)

 前回に引き続いて沢知恵著『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』(岩波ブックレット、2022年11月)にあった興味深い記述を紹介したい。

 

  1930年、ハンセン病患者を全員隔離収容することを目指して開設された初めての「国立」療養所が長島愛生園です。それまであった五つの療養所は、09年に開設された都道府県連合立の「公立」療養所です。長島愛生園の初代園長には、東京の全生病院から光田健輔が赴任し、1957年に退官するまで長くつとめました。光田は当初ハワイのモロカイ島にあるカラウパパ療養所をモデルに、沖縄での開設をもくろんだのですが、うまくゆかず、岡山の官用地に土地を得ました。
  長島愛生園には、園歌より先につくられたうたがあります。《開拓の歌》です。(中略)
  全生病院で光田健輔によって選ばれし「開拓患者」たちは、あたらしい療養所を文字通り「開拓」するために、岡山にやってきました。長旅の末、船で長島に上陸したその日にうたった《開拓の歌》は、光田の弟子である医師の林文雄(1900ー47)がウェールズ民謡のメロディーに作詞したものです。全生病院でつくり、みんなで練習を重ねたと思われます。そうでなければ、上陸したその日にうたうことはできません。
  「憂いのこころを うちひらきひらき 犠牲の焔を 燃えいだせ」
  「祖国を浄むる 一大使命に 生きゆく身の幸 いざうたわん」
  「悩みよいざ 悲しみいざ 踏み越え 踏み越え 踏み越え行かん」
  これから始まる生活への希望と不安を胸に、うたいながら開拓への使命感を燃やしたのではないでしょうか。
 
  
  国立ハンセン病療養所で入所者の方たちのお話をお聴きしたことがあるが、たぶんこの当時はハンセン病療養所の運営の相当部分が入所者の労働によって担われていたと思われる。重症患者の世話をはじめ炊事洗濯、園内の土木作業、屎尿処理、療友の火葬までもが入所者によって行われていた。しかし、自らを社会から隔離するための療養所開設に向けた「開拓」にまで患者たちが動員され、その作業意識を鼓舞するための歌まで準備されていたことには、正直、驚いた。
 光田健輔(1876ー1964)は、生涯をハンセン病者救済に捧げ、生前は「救癩の父」と言われていた病理学者・医師だった。が、入所者の強制不妊手術や人工妊娠中絶手術の実施、強制隔離、無癩県運動を推し進めた中心人物として、さらにハンセン病の特効薬プロミンによってハンセン病が確実に治癒する病となった後も、強制隔離政策の維持・強化を主張し続けた光田は、二十世紀後半以降ハンセン病者に対する差別・人権を侵害した人物として批判されている。
 ここで長島愛生園の園歌についても見ておこう。作詞は「開拓患者」の山田甚三、作曲は地元の作曲家とのこと。毎月二十日の開園記念日には、園歌を歌いながら旗をもって礼拝堂(講堂)まで行進したという。

 

  「なやみよろこび 共にわかちつ われらが営む 一大家族」
  「民族浄化」とならんで「無癩県運動」のスローガンになった「一大家族」が初めて園歌の歌詞に登場したのは、長島愛生園です。

  
 少年時代に入所した方の証言が記されていた。

 

  「一大家族」は好きなことばやったな。親なし子だったからな。実の両親とか家族から見捨てられてしまったような人たちにとってみたらな、ここで知った人たちはみんなきょうだいなんよ。だけどな、外の人たちが、療養所で過ごしている人たちのことを「一大家族」というのは、ここで家族みたいに過ごしなさいという、そういう甘いヴェールでもって包んだ、実は外に出て来たらあかんよという意味で、ここで仲よくしなさいよということ。

 

 1988(昭和63)年5月に「邑久長島大橋」が架かるまで、愛生園は地理的にも30メートルほどの海峡に隔てられた隔離された療養所だった。



2023.03.06 Monday 07:48
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『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』

 岩波書店の月刊PR誌『図書』で紹介されていた沢知恵著『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』(岩波ブックレット、2022年11月)のタイトル、その切り口に興味を惹かれて購入し、新年最初に読ませていただいた。
 青森から沖縄まで全国に十三ヵ所ある国立ハンセン病療養所の園内に、大正天皇の后である貞明皇后の詠んだ短歌「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」の歌碑が建立されていることを拙も知っていた。が、沢氏の指摘のように、この歌に曲が付され全療養所で歌われていたということは知らなかった。氏はこの歌について次のように記している。  

 

  全国の入所者たちは、間に介する職員や関係者に発せられたメッセージを、ここまで自分たちを気にかけてくださるのかと感謝と感激で受け取り、かえって皇室への忠誠心を強くしたのです。直接ではないからこそ強く訴える力が、このうたにはあったのです。御歌「つれづれの」は、皇室の限られた発信手段であった短歌を職員や関係者が政治利用したものであるといえます。御歌は「救癩」(ハンセン病患者を救う社会事業)のシンボルとして全療養所に広くゆきわたり、詠むだけでなく曲がつけられてみんなで声を合わせてうたうことで、さらに深く人々の心にしみわたることになりました。 (23頁)

 

 この『つれづれの』には当時の二大作曲家による曲が付されていて、ひとつは『からたちの花』とか『赤とんぼ』の作曲者・山田耕筰の曲、もうひとつは童謡『七つの子』や『赤い靴』などの作曲者・本居長世の曲があって、26、27頁に五線譜が掲載されており、http://iwnm.jp/271070 で山田耕筰のもの(1935年録音SP盤)が試聴できる。
 沢氏は東京藝術大学音楽学部楽理科、岡山大学大学院教育学研究科で研鑽、研究された方で、各療養所の園歌について北から南へひとつひとつ調査し、疑問点があるときにはその謎解きをされている。
 十三ヵ所の国立療養所中、最北の松丘保養園(東北・北海道新幹線「新青森駅」から南西へ2キロほど)の項に次のような記述があった。

 

  松丘保養園の園歌には、歌詞が二節までしかありません。ふつうは三節か四節まであります。(中略)なぜ三節はなくなってしまったのでしょう。
  北部保養院は、1909年に開設された最初の公立療養所のひとつです。おもに北海道、東北地方のハンセン病患者が収容され、41年に国立療養所松丘保養園になりました。
  作詞したのは、内務省衛生局予防課長の高野六郎(1884ー1960)です。斎藤茂吉(1882ー1953)の同級生で、アララギ派の歌人でもありました。医師の光田健輔とともに「無癩県運動」を牽引した高野は、欧米の衛生思想に影響を受け、「民族浄化」ということばを積極的に用いたことで知られています。「民族浄化」は「無癩県運動」のスローガンになり、のちの他の療養所の園歌の歌詞にも見られるようになりますが、初めて登場したのはこの《北部保養院院歌》です。 
  「民族浄化目指しつつ 進む吾等の保養院」
  敗戦後、おそらくこの歌詞が理由で、三節が丸ごと削除されたのだと思います。私が松丘保養園の入所者自治会の役員と交わした何気ない会話の中で、かつてそのような歌詞が院歌にあったことを、いまなお恥じているというニュアンスを受け取りました。できればその話題にはふれてほしくないというように。それほどまでに、「民族浄化」は忌まわしい隔離の歴史を思い起こさせる強烈な響きのことばなのです。また、入所者にとって園歌は、自身のアイデンティティーにもかかわる重要な存在であることもわかりました。
(後略)(30〜32頁)

 

  以下、東北新生園(宮城)、栗生楽泉園(群馬)、多磨全生園(東京)、駿河療養所(静岡)、長島愛生園、邑久光明園(岡山)、大島青松園(香川)、菊池恵楓園(熊本)、星塚敬愛園、奄美和光園(鹿児島)、沖縄愛楽園、宮古南静園(沖縄)の各園の園歌が取り上げられ、興味深い検討がなされている。

 

 



2023.03.06 Monday 07:38
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ウクライナ人道支援募金のご報告

 2022年12月26日に東雲寺に寄託されたウクライナ人道支援募金を日本赤十字社やウクライナ大使館にお届けしました。

 これまでに273,698円お届けしています。

 先日、ウクライナ大使から以下のようなFAXが届きました。

 

 



2023.01.16 Monday 12:42
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仏教と人権・差別

 

 2022年12月25日14時〜15時30分、東雲寺仏教講座「『スッタニパータ』を読む」(第21回)を開催しました。

 第3章「大いなる章」の第7経「セーラ」562詩句〜第8経「矢」593詩句までを読みました。

 563詩句の「色の黒い種族の生まれの者でも」については、堀晄著『古代インド文明の謎』吉川弘文館、2008年)を紹介し、南インドの肌色の黒い人びと(ドラビダ人)と北インドの比較的肌色が白い人びと(インド人)はDNA分析によると極めて近い関係にあることや「肌の色は紫外線の強度に対する適応にすぎず(中略)また、時間的にも1万年程度でこのような変化が起きてしまう表面的な現象にすぎない」という指摘を紹介させていただき、「色の黒い種族」を「賤しい」とするような経説には注意すべきであるということをお話しました。

 また、580詩句「人は屠所に引かれる牛のように」という誰にでも訪れる「死」について、この『スッタニパータ』の経説は、品川区のホームページから「芝浦と場ー−職員からの一言」などをプリントアウトして配布紹介し、と場労働者への偏見・差別の問題につながる危険性のある経文であることを指摘させていただき、人権と差別の問題について考えました。

 

 ご参加いただいた方には、ご賛同いただければ資料代としてウクライナ人道危機救援募金200円をいただいています。

 仏教講座参加者はじめ東雲寺にお出でくださった檀信徒の皆さま、坐禅会参加者、梅花講の皆さまなどのご協力で、

 

    12月26日現在の集計で  273,698円

 

 を寄託いただきました。

 これを駐日ウクライナ大使館と日本赤十字社に送金いたしました。

 ご協力、ありがとうございました。



2022.12.26 Monday 18:32
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斎藤洋一先生のご教導の手紙

 

 私の尊敬する研究者・教育者のお一人である斎藤洋一先生(信州農村開発史研究所所長)から8月下旬、9月中旬に相次いでお手紙をいただいた。いずれも「坐禅会たより」で取り上げたDVDビデオ『全国水平社創立100周年 未来に向けてのメッセージ』に関するご感想ご教導だった(当ブログ8月2日付「水平社創立100周年 未来に向けてのメッセージ」参照)。8月24日消印のお手紙では、「たより」906号〜910号の各号それぞれに有り難いコメントをお寄せてくださっている。その中の内田博文氏(国立ハンセン病資料館館長、ハンセン病市民学会共同代表、九州大学名誉教授)のメッセージに対しては次のようなご感想が記されていた。

 

 第910号では、内田博文さんのお考えが紹介されています。6月に、ハンセン病市民学会で内田さんの精緻なお話をうかがったばかりでしたので、おっしゃっておられることがとてもよくわかりました。「いたわる」というのは、気をつけなければいけないことばですね。
 
  今年6月11、12日に長野市において第16回ハンセン病市民学会全国交流集会が開催され、内田氏はアドバイザーやコーディネーターとして集会運営に関わっていた。斎藤先生はこの集会に参加されて内田氏の話を直接お聴きになったようだ。そして「いたわる」というのは、内田氏が『水平社宣言』の中にある「勦る」に関連して、ハンセン病差別問題の中でも、その「いたわる」というパターナリズムが人権侵害に転化する事例がたくさんあると指摘していることに関して仰っているのだろうと思う。パターナリズム(paternalism)とは「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう」(ウィキペディア)である。
 そして斎藤先生の9月12日消印の封書は次のようなお手紙であり、『信濃毎日新聞』(平成18年7月4日)のコピーが同封されていた。

 

 「坐禅会たより」911〜915号ありがとうございました。911号の「その6」を読んで近頃になって知人からもらった新聞コピーを柚木さんにも見てもらいたいと思いました。(中略)知人が文書の持主でした。隣家でも大変なことになったことがわかります。患者・患者家族だけでなく、近所の人まで被害をこうむっていたのですね。政府の施策はもちろんですが、正しい知識の普及が欠かせないと思いました。新型コロナもそうですね。(後略)

 

 「たより」911号の「その6」は、前出の『未来に向けてのメッセージ』で「らい予防法違憲訴訟」の判決によって被害補償や名誉回復が行われるようになったが、そこにはハンセン病元患者・回復者の家族は含まれていなかった。そこで「家族訴訟」が提起されたというような内田博文氏の発言を取り上げた号である。
頂戴した新聞コピーを見てみると1951(昭和26)年、長野県のある村でハンセン病の新患が確認され、県が村に国立療養所に隔離を指示、患者を多磨全生園(東京都東村山市)に収容するまでの公文書などさまざまな記録が県内で見つかったという記事だった。患者の護送を命じられ療養所まで付き添った村役場職員が患者宅の隣人で、この方の遺品の中にあったものだ。
 当時すでにハンセン病は治療法が分かり治癒する病になっていて、感染力が極めて弱い感染症であり、成人での感染、発病の可能性はほとんどないことなどが専門家の間では知られていた。にもかかわらず、後に違憲とされた「らい予防法」(1996年に廃止)によって強制隔離政策が続けられ、「恐ろしい伝染病」「不治の病」「業病」などの誤った情報が世間に撒き散らされ続けた。
 新聞のコピーの左側囲みには「友だちが来なくなった」「隣家にも及んだ差別」という見出しがあり、患者宅と隣家とは家族ぐるみの付き合いがあり、患者宅だけでなく隣家も消毒されたこと、近所の人たちの隣家との付き合い方が変わり、友だちも遊びに来なくなったこと、当該〈患者〉は4年ほどで退所(治癒)し帰宅したが、後に一家離散状態になったことなどが記されていた。
 斎藤先生の親切なご教導を紹介させていただいた。

 



2022.10.06 Thursday 11:56
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