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東雲寺仏教講座「『法句経』を読む」開催

 

 2019年6月23日(日)13時30分〜15時、「『法句経』を読む」第16回を開催いたしました。

第24章343詩句〜第25章370詩句までを拝読しました。次回は10月27日に開催予定です。

 

 7月からの夏季3ヵ月の毎月最終日曜日15時からは明治大学名誉教授・圭室文雄先生の近世宗教史の連続講座を開催します。

 

7月28日は「寛永寺の歴史について」

8月25日は「増上寺の歴史について」

9月29日は「勧修寺の歴史について」

 

  をテーマにご講演いただきます。

 聴講ご希望の方は、お名前、ご住所、電話番号を書いて、下記宛てお申し込みください。

 FAX 042-721-2964

 メール butudou-sogen@vesta.ocn.ne.jp

 ハガキ 194-0044 町田市成瀬4-14-1 東雲寺

 



2019.06.30 Sunday 21:30
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『法句経』 八正道の教え

 春彼岸の最終日午後、東雲寺仏教講座『法句経』を読む(第13回)を開催しました。

 今回は特に第20章「道」の273詩句からの四諦八正道の教えなどを写真のような上下四段に記したテキストを記読みながら仏教の教えを学びました。26名の方が参加されました。資料代として頂戴したお一人200円、今回の総額7,300円(500円や1000円を寄託してくださる方がおられます)は、東日本大震災被災地支援の募金にさせていただいております。



2019.03.25 Monday 14:32
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『法句経』を読んでます

 紀元前4〜3世紀に成立した最古の経典、原始仏典のひとつ『法句経』を読みながら仏教の教えを学んでいます。

 中村元先生の『法句経』(岩波文庫)、友松圓諦師の『法句経』(講談社学術文庫)の現代語訳、友松訳詩、『法句経』漢訳およびその読み下しを併読しながら、『法句経』の教えを学んでいます。

 下記の「第14章 ブッダ」の190、191詩句は仏法僧の三宝、四諦八正道の教えが説かれています。

 興味のある方は、butudou-sogen@vesta.ocn.ne.jp に予めお申し込みくださり、

  12月23日(日)14時30分までに東雲寺本堂にお出でくださり、ご参加ください。

  明年は1月27日(日)14時30分〜16時に開催予定です。

 

 |翅叱機悒屮奪世凌人の言葉』(岩波文庫)
  「第14章 ブッダ」
190,191  さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。  すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。

 

◆〕Ь菖つ『法句経』現代語訳(講談社学術文庫)
  「14 仏陀について」
190  仏陀と達磨と僧伽とに帰依するところの人は正しい智慧をもって四つの尊い真理を見ることができる。(仏・法・僧宝)
191  四つの尊い真理とは、人生の苦しみなること、その苦しみが何によって起ってきたかということ、次にはこの苦しみの離脱、次には苦の滅尽に達する八種の尊い形式のことである。(四諦)

 

 友松圓諦『法句経』(講談社学術文庫)
  「第14品 仏陀」
190  さとれるものと
        真理の法と
        和合の集まりに
        帰依するものは
        正しき智慧もて
        四つの聖なる
        真理を見るなり
191  くるしみと
       くるしみの
       おい立ちと
       離脱と
       くるしみの
       滅尽に導く
       八つの聖道

 

ぁ 慄ゞ膩弌抓遡(講談社)友松読み下し
  「第14品 仏陀」
190  如有自帰
       仏法聖衆
       道徳四諦
       必見正慧
  如し自ら仏、法、聖衆、道徳の四諦に帰する有らば、必ず正慧を見ん。
191  生死極苦
       従諦得度
       渡世八道
       斯除衆苦
  生死は極苦なり、諦に従って度を得、世を度する八道は、斯れ衆苦を除く。



2018.12.19 Wednesday 11:58
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東雲寺仏教講座「『法句経』を読む」開催

 『法句経』第12章「自己」の165詩句から第13章「世の中」、第14章「ブッダ」の191詩句まで拝読しました。

 183詩句は「すべての悪しきことをなさず、善いことを行ない。自己の心を浄めること、ーーこれが諸の仏の教えである」であり、この漢訳は「諸悪莫作、諸善奉行、自浄其意、是諸仏教」という、いわゆる「七仏通誡偈」と言われるものでした。(ただし、二句目は「衆善」ではなく「諸善」)



2018.11.26 Monday 11:08
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『法句経』を読んでいます

 

東雲寺仏教講座で『法句経』を読んでいます。

岩波文庫の中村元訳『ブッダ真理の言葉』、友松圓諦訳『法句経』の現代語訳、友松作詩、漢訳の4つを比較しながら、『法句経』の説くところを推しはかり学んでいます。

今回は第10章「暴力」137詩句から第12章「自己」164詩句を読みました。

160詩句には有名な「おのれこそ おのれのよるべ/おのれを措きて/誰によるべぞ/よくととのえし/おのれにこそ/まことえがたき/よるべをぞ獲ん」がありました。



2018.10.22 Monday 21:24
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馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』を読み心に残ったこと

 気になるところに付箋貼りながら馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』(岩波新書、2018年8月)を読み終えた。その中で心に残った箇所のいくつかを以下に記す。

 

 信者ではない者に対する第一段階の教えとしての「贈与(施)、習慣(戒)、天界(生天)」と、聞き手にさらなる教えを聞く準備ができた第二段階の教えとしての「苦、原因、停止、道」すなわち「四聖諦」とが、区別されている。仏教を知らない聞き手にふさわしい教えを説いたうえで、それを聞いて心が澄んだ者には、仏教の核心となる「諸仏の卓越した説法」を説くのである。

 第一段階の教えが「贈与、習慣、天界」という順序になっているのは、前二者を実践することによって、天界への再生が実現するからである。聞き手が抱いていたであろう願望を前提として、贈与の実践と正しい習慣の定着を促したのである。(112頁)

 

 贈与とともに、他者への倫理と定期的な禁欲が、天界に再生する道であるというのが、未信者に対する第一段階の教えである。仏教以前から存在していた生天信仰を、祭式から切り離し、贈与と良い習慣をその条件とすることによって「倫理化」しているのである。(117頁)

 

これは、まず相手の土俵で願望に合わせて説き、さらに仏教の教えを説くという次第説法についての記述である。漢訳の「布施」「持戒」が原語からの翻訳で「贈与」「習慣」としている。

 

(前略)行為を根本から正すには、たんに行為を律するだけではなく、心そのものを正さなければならない。仏典には、諸仏の偈として有名な、次のような詩がある。
  一切の悪をなさないこと、
  善を具えること、
  自らの心を清めること、
  これが諸仏の教えである。
 悪をなさず、善を身につけるという自律は、究極的には心を清めることを必要とする。(139頁)

 

 この詩は「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」と漢訳された「七仏通誡偈」だ。

 

  「自己」だと思われている個体存在は、じつは六つの認識器官の束に過ぎない。たしかに、私たちは日常生活や社会経験として、「わたし」や「自己」という存在を自明のものとして生きている。しかしじつはそこには主体はなく、存在するのは個々の認識器官である。これが「六処」の思想である。(中略)漢訳で「非我」とか「無我」とされている原語は、「自己」だと思われているもののどれひとつとっても「自己ではない」ことを意味している。日本ではしばしば誤解されているが、「無我」の本来の意味は、私心がないことでも夢中になることでもないのである。(154頁)

 

 「六処」とは「眼、耳、鼻、舌、身、意」の六つの認識器官のことであり、その「各認識器官は自己ではなく、自らのものでもない」(155頁)とし、この考え方が「空の思想」の原初の形だという。

 

(前略)先行する解脱思想に対し、仏教はその意味をまったく換えている。解脱とは、もともとは「再生の連鎖からの真の自己の解放」だったのに対して、仏教では「欲望・生存・無知からの心の解放」なのである。
ここで興味深いのは、「自己」ではなく、無常な「心」をこの文の主語としたことによって、真の自己が輪廻から解放されるという「解脱」にあったもとの意味は消えていることである。解脱は、それに代わって輪廻という「自己の再生産」からの解放を指すことになる。この点で、仏教は、「解脱」という言葉の意味を換骨奪胎したのである。(192頁)

 

 先行する解脱思想とはバラモン教やジャイナ教における解脱についての考え方で、いずれも「再生の連鎖=輪廻」からの「真の自己・主体」の解放を説いた。が、仏教は「欲望(快楽、執着のひとつ→取)・生存(有)・無知(無明)」という「十二支縁起(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)」に対応する「自己の再生産」から無常な「心」の解放、十二支縁起の停止を解脱としたというのだ。
 関心のある方、どうぞ一読されたい。



2018.10.12 Friday 13:30
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『初期仏教 ブッダの思想をたどる』を読む

 10月から東雲寺仏教講座を再開する。「『法句経』を読む」の第八回目になる。
 10月第四日曜の28日には相模原市緑区根小屋功雲寺様の「道了大祭大祈祷法要」があるので、第三日曜(10月21日)15時に開催するが、東雲寺の講座は原則的に毎月第四日曜午後開催である。


 『法句経』は原始仏教聖典の中でもとくに有名で、世界中の多くの人びとに読まれている経典のひとつである。『法句経』を読みながら仏教の開祖お釈迦さまの教えや原始仏教教団における修行の様子などを学ぼうと思っている。

 ところで先月8月21日に馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』(岩波新書)が出版された。書名を見て『法句経』を読み進める上で有益だろうと思い購入した。

   読み進めて行く中で興味深く衝撃的なことがらがあったので、本書の第2章「初期仏典のなりたち」から、それらのいくつかを紹介したい。

 

  恒久財産にもとづく「僧院」は遅くとも紀元前一世紀に成立し、時代が下るにつれて、その数を増していった。一年を通じて千人規模の出家者が生活できる大僧院がしだいに現れ、ナーランダ僧院やヴィクラマシーラ僧院といった有名な学問寺が成立していくこととなる。

 出家教団のこうした組織化は、教えの伝承にも変化をもたらすことになった。

 出家者が基本的に遊行している限りは、仏典を文字に書き写しても、写本を持って歩かなければならなくなるから、かえって不便である。しかし、恒常的に運営される僧院があれば、そこに写本を置いておけば、管理者が保管し、希望者が閲覧できるようになる。そのような僧院の誕生は、口頭伝承だった仏典の書写を促す重要な契機になったと考えられる。 (48頁)

 

 遊行しているときには経典を持ち歩くより口頭伝承の方が便利。なるほどなるほど。
 交易によって莫大な富を築いた商人や金融業者などから寄附された農地や金銭などによって出家集団が恒久的な経営を行う組織に変わり、仏典書写を促す契機になったという。

 

  古代インドでは、中東や中国と比べて、文字の成立が遅かったと考えられる。インダス文明に文字があったかどうかはまだ結論に達しておらず、今日確認されているインド最古の文字資料は上述のアショーカ王碑文だから、確実に文字が成立していたと言える時代は紀元前三世紀まで下る。(51頁)

 

 文字がなかったため、お釈迦さま在世時から二、三百年間は口頭伝承せざるを得なかったということらしい。

 

 確かに、聞き手に応じ、内容を変えて伝承していたと考える場合、初期仏典は、音楽に喩えるなら、クラシックよりも、演奏のたびに大胆なアレンジがあるジャズのようなものだったことになる。実際、ガンダーラ写本では、同じ仏典が書写されていても、その内容が異なる例が報告されている。また、パーリ語とサンスクリット語と漢訳との間で同じ仏典が大きく異なる例はいくつも指摘できる。(55頁)

 

 インドには一字一句違わないように口頭伝承されるヴェーダ文化があり、お釈迦さまの教えも一字一句違わない伝承もされていたが、そのほかに、こうしたジャズ的な教えの口頭伝承もあったというのである。

  韻文仏典のなかには紀元前に成立したものが含まれているが、元来、結集仏典としての権威をもたず、その外部で伝承されていたのである。


  このことは、かつて中村元らの仏教学者が想定していた、韻文仏典から散文仏典(三蔵)へ発展したという単線的な図式が成り立たないことを意味する。韻文仏典に三蔵の起源を見出すことには、方法論的な問題があるのである。(70頁)

 

 結集(仏典編集会議)で共に唱え、お釈迦さまの教えを確認したものが伝えられ、後に経・律・論の三蔵になったが、『法句経』などの小部の韻文経典は当初含まれておらず、遅れて編入されたという。



2018.09.30 Sunday 22:15
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東雲寺仏教講座『法句経』「千という数にちなんで」

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 昨年暮れからの東雲寺仏教講座では原始仏典『法句経』を読んでいます。

 『法句経』26章423詩句の中、今回は第7章「拝むに足る人(真人)」の94〜99詩句、第8章「千の数(千という数にちなんで)」100〜115詩句を拝読しました。中村元先生の『ブッダの真理の言葉』(岩波文庫)の語注によると、100〜115詩句は「かなり古い時代に由来するらしい」とのこと。紀元前4〜3世紀に成立したと言われている『法句経』の中でも、古い時代から仏教者たちによって唱えられていたお釈迦さまの教えということだろうか。

 

100 無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。


101 無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

 

102 無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

 

103 戦場において百万人に勝つとしても、唯だ一つの自己に克つ者こそ、実に最上の勝利者である。

 

104、105 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、  このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。

 

106 百年のあいだ、月々千回ずつ祭(まつ)祀(り)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供(く)養(よう)するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。


107 百年のあいだ、林の中で祭祀(まつり)の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。


108 功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神まつり犠牲(いけにえ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。


109 つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種のことがらが増大する。  すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。

 

110 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。


111 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

 

112 怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。

 

113 物事(ものごと)が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。

 

114 不死(しなない)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。


115 最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。

 




 



2018.05.28 Monday 07:36
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東雲寺仏教講座「『法句経』を読む」(第5回)開催

  第六章 賢い人
76 (おのが)罪過を指し示し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。   隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従ううならば、善いことがあり、悪いことは無い。
77 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人から愛せられ、悪人からは疎まれる。
78 悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
79 真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。
80 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。
81 一つの岩の塊りが風に揺がないように、賢者は非難と賞讃とに動じない。
82 深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。  
83 高尚な人々は、どこにいても、執着することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。
84 自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行ないあり、明かな知慧あり、真理にしたがっておれ。
85 人々は多いが、彼岸に達する人々は少い。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。
86 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。
87 賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行なえ。家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことではあるが、孤独のうちに、喜びを求めよ。
88  賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。
89  覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から説きほごされている。

 

中村元訳『ブッダの真理のことば』(岩波文庫)、友松圓諦訳『法句経』(講談社学術文庫)などで、『法句経』を学習しています。

今回は「ダンマパダ」73詩から93詩まで読みました。上記の第6章が中心でした。



2018.04.22 Sunday 18:15
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もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である

 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。『法句経』63詩

 

 3月25日(日)15時〜16時30分、東雲寺仏教講座「『法句経』を読む」第4回を開催。

 中村元訳『ブッダの真理のことば、感興のことば』(岩波文庫)の第4章「花にちなんで」51詩から第5章「愚かな人」72詩までを友松圓諦訳『法句経』(講談社学術文庫)邦訳や現代語訳、さらに同師の『法句経』(講談社)に収録されている漢訳、その読み下しを読みくらべながら、仏教の教えを学んでいる。

 自ら未熟で愚かである。私には学ぶことがまだまだある、あらゆる人やものごとから学びたいと思っているならば、そういう人を賢いと言うのだ。その逆に、自分は賢い、何でも知っている、もう学ぶことがない。そして自分以外の人々は愚かだ、と思っているようなひとは、本当の愚か者だということだろう。

 話は変わるが、映画『男はつらいよ 寅次郎 真実一路』(1984年12月)に「蒸発」した夫を捜す人妻(大原麗子)とともに旅する中で、人妻に心惹かれる自身を「醜い」と言う寅次郎に、妹さくらの夫・博が「にいさん、己の醜さに気づいている人間は決して醜くありません。本当に醜いのは自分の醜さに気づいていない人間です」と慰める場面がある。

 私は、『法句経』63詩の教えを読んだ瞬間に、寅さんの前述の「自覚」を思い出し、それは『法句経』の教えに通ずる「真実」を言っているに違いないと思った。

 



2018.03.25 Sunday 21:23
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