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『法句経』を読んでいます

 

東雲寺仏教講座で『法句経』を読んでいます。

岩波文庫の中村元訳『ブッダ真理の言葉』、友松圓諦訳『法句経』の現代語訳、友松作詩、漢訳の4つを比較しながら、『法句経』の説くところを推しはかり学んでいます。

今回は第10章「暴力」137詩句から第12章「自己」164詩句を読みました。

160詩句には有名な「おのれこそ おのれのよるべ/おのれを措きて/誰によるべぞ/よくととのえし/おのれにこそ/まことえがたき/よるべをぞ獲ん」がありました。



2018.10.22 Monday 21:24
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馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』を読み心に残ったこと

 気になるところに付箋貼りながら馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』(岩波新書、2018年8月)を読み終えた。その中で心に残った箇所のいくつかを以下に記す。

 

 信者ではない者に対する第一段階の教えとしての「贈与(施)、習慣(戒)、天界(生天)」と、聞き手にさらなる教えを聞く準備ができた第二段階の教えとしての「苦、原因、停止、道」すなわち「四聖諦」とが、区別されている。仏教を知らない聞き手にふさわしい教えを説いたうえで、それを聞いて心が澄んだ者には、仏教の核心となる「諸仏の卓越した説法」を説くのである。

 第一段階の教えが「贈与、習慣、天界」という順序になっているのは、前二者を実践することによって、天界への再生が実現するからである。聞き手が抱いていたであろう願望を前提として、贈与の実践と正しい習慣の定着を促したのである。(112頁)

 

 贈与とともに、他者への倫理と定期的な禁欲が、天界に再生する道であるというのが、未信者に対する第一段階の教えである。仏教以前から存在していた生天信仰を、祭式から切り離し、贈与と良い習慣をその条件とすることによって「倫理化」しているのである。(117頁)

 

これは、まず相手の土俵で願望に合わせて説き、さらに仏教の教えを説くという次第説法についての記述である。漢訳の「布施」「持戒」が原語からの翻訳で「贈与」「習慣」としている。

 

(前略)行為を根本から正すには、たんに行為を律するだけではなく、心そのものを正さなければならない。仏典には、諸仏の偈として有名な、次のような詩がある。
  一切の悪をなさないこと、
  善を具えること、
  自らの心を清めること、
  これが諸仏の教えである。
 悪をなさず、善を身につけるという自律は、究極的には心を清めることを必要とする。(139頁)

 

 この詩は「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」と漢訳された「七仏通誡偈」だ。

 

  「自己」だと思われている個体存在は、じつは六つの認識器官の束に過ぎない。たしかに、私たちは日常生活や社会経験として、「わたし」や「自己」という存在を自明のものとして生きている。しかしじつはそこには主体はなく、存在するのは個々の認識器官である。これが「六処」の思想である。(中略)漢訳で「非我」とか「無我」とされている原語は、「自己」だと思われているもののどれひとつとっても「自己ではない」ことを意味している。日本ではしばしば誤解されているが、「無我」の本来の意味は、私心がないことでも夢中になることでもないのである。(154頁)

 

 「六処」とは「眼、耳、鼻、舌、身、意」の六つの認識器官のことであり、その「各認識器官は自己ではなく、自らのものでもない」(155頁)とし、この考え方が「空の思想」の原初の形だという。

 

(前略)先行する解脱思想に対し、仏教はその意味をまったく換えている。解脱とは、もともとは「再生の連鎖からの真の自己の解放」だったのに対して、仏教では「欲望・生存・無知からの心の解放」なのである。
ここで興味深いのは、「自己」ではなく、無常な「心」をこの文の主語としたことによって、真の自己が輪廻から解放されるという「解脱」にあったもとの意味は消えていることである。解脱は、それに代わって輪廻という「自己の再生産」からの解放を指すことになる。この点で、仏教は、「解脱」という言葉の意味を換骨奪胎したのである。(192頁)

 

 先行する解脱思想とはバラモン教やジャイナ教における解脱についての考え方で、いずれも「再生の連鎖=輪廻」からの「真の自己・主体」の解放を説いた。が、仏教は「欲望(快楽、執着のひとつ→取)・生存(有)・無知(無明)」という「十二支縁起(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)」に対応する「自己の再生産」から無常な「心」の解放、十二支縁起の停止を解脱としたというのだ。
 関心のある方、どうぞ一読されたい。



2018.10.12 Friday 13:30
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『初期仏教 ブッダの思想をたどる』を読む

 10月から東雲寺仏教講座を再開する。「『法句経』を読む」の第八回目になる。
 10月第四日曜の28日には相模原市緑区根小屋功雲寺様の「道了大祭大祈祷法要」があるので、第三日曜(10月21日)15時に開催するが、東雲寺の講座は原則的に毎月第四日曜午後開催である。


 『法句経』は原始仏教聖典の中でもとくに有名で、世界中の多くの人びとに読まれている経典のひとつである。『法句経』を読みながら仏教の開祖お釈迦さまの教えや原始仏教教団における修行の様子などを学ぼうと思っている。

 ところで先月8月21日に馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』(岩波新書)が出版された。書名を見て『法句経』を読み進める上で有益だろうと思い購入した。

   読み進めて行く中で興味深く衝撃的なことがらがあったので、本書の第2章「初期仏典のなりたち」から、それらのいくつかを紹介したい。

 

  恒久財産にもとづく「僧院」は遅くとも紀元前一世紀に成立し、時代が下るにつれて、その数を増していった。一年を通じて千人規模の出家者が生活できる大僧院がしだいに現れ、ナーランダ僧院やヴィクラマシーラ僧院といった有名な学問寺が成立していくこととなる。

 出家教団のこうした組織化は、教えの伝承にも変化をもたらすことになった。

 出家者が基本的に遊行している限りは、仏典を文字に書き写しても、写本を持って歩かなければならなくなるから、かえって不便である。しかし、恒常的に運営される僧院があれば、そこに写本を置いておけば、管理者が保管し、希望者が閲覧できるようになる。そのような僧院の誕生は、口頭伝承だった仏典の書写を促す重要な契機になったと考えられる。 (48頁)

 

 遊行しているときには経典を持ち歩くより口頭伝承の方が便利。なるほどなるほど。
 交易によって莫大な富を築いた商人や金融業者などから寄附された農地や金銭などによって出家集団が恒久的な経営を行う組織に変わり、仏典書写を促す契機になったという。

 

  古代インドでは、中東や中国と比べて、文字の成立が遅かったと考えられる。インダス文明に文字があったかどうかはまだ結論に達しておらず、今日確認されているインド最古の文字資料は上述のアショーカ王碑文だから、確実に文字が成立していたと言える時代は紀元前三世紀まで下る。(51頁)

 

 文字がなかったため、お釈迦さま在世時から二、三百年間は口頭伝承せざるを得なかったということらしい。

 

 確かに、聞き手に応じ、内容を変えて伝承していたと考える場合、初期仏典は、音楽に喩えるなら、クラシックよりも、演奏のたびに大胆なアレンジがあるジャズのようなものだったことになる。実際、ガンダーラ写本では、同じ仏典が書写されていても、その内容が異なる例が報告されている。また、パーリ語とサンスクリット語と漢訳との間で同じ仏典が大きく異なる例はいくつも指摘できる。(55頁)

 

 インドには一字一句違わないように口頭伝承されるヴェーダ文化があり、お釈迦さまの教えも一字一句違わない伝承もされていたが、そのほかに、こうしたジャズ的な教えの口頭伝承もあったというのである。

  韻文仏典のなかには紀元前に成立したものが含まれているが、元来、結集仏典としての権威をもたず、その外部で伝承されていたのである。


  このことは、かつて中村元らの仏教学者が想定していた、韻文仏典から散文仏典(三蔵)へ発展したという単線的な図式が成り立たないことを意味する。韻文仏典に三蔵の起源を見出すことには、方法論的な問題があるのである。(70頁)

 

 結集(仏典編集会議)で共に唱え、お釈迦さまの教えを確認したものが伝えられ、後に経・律・論の三蔵になったが、『法句経』などの小部の韻文経典は当初含まれておらず、遅れて編入されたという。



2018.09.30 Sunday 22:15
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東雲寺仏教講座『法句経』「千という数にちなんで」

20180527_162507.jpg
 昨年暮れからの東雲寺仏教講座では原始仏典『法句経』を読んでいます。

 『法句経』26章423詩句の中、今回は第7章「拝むに足る人(真人)」の94〜99詩句、第8章「千の数(千という数にちなんで)」100〜115詩句を拝読しました。中村元先生の『ブッダの真理の言葉』(岩波文庫)の語注によると、100〜115詩句は「かなり古い時代に由来するらしい」とのこと。紀元前4〜3世紀に成立したと言われている『法句経』の中でも、古い時代から仏教者たちによって唱えられていたお釈迦さまの教えということだろうか。

 

100 無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。


101 無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

 

102 無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

 

103 戦場において百万人に勝つとしても、唯だ一つの自己に克つ者こそ、実に最上の勝利者である。

 

104、105 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、  このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。

 

106 百年のあいだ、月々千回ずつ祭(まつ)祀(り)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供(く)養(よう)するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。


107 百年のあいだ、林の中で祭祀(まつり)の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。


108 功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神まつり犠牲(いけにえ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。


109 つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種のことがらが増大する。  すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。

 

110 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。


111 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

 

112 怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。

 

113 物事(ものごと)が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。

 

114 不死(しなない)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。


115 最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。

 




 



2018.05.28 Monday 07:36
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東雲寺仏教講座「『法句経』を読む」(第5回)開催

  第六章 賢い人
76 (おのが)罪過を指し示し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。   隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従ううならば、善いことがあり、悪いことは無い。
77 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人から愛せられ、悪人からは疎まれる。
78 悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
79 真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。
80 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。
81 一つの岩の塊りが風に揺がないように、賢者は非難と賞讃とに動じない。
82 深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。  
83 高尚な人々は、どこにいても、執着することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。
84 自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行ないあり、明かな知慧あり、真理にしたがっておれ。
85 人々は多いが、彼岸に達する人々は少い。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。
86 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。
87 賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行なえ。家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことではあるが、孤独のうちに、喜びを求めよ。
88  賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。
89  覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から説きほごされている。

 

中村元訳『ブッダの真理のことば』(岩波文庫)、友松圓諦訳『法句経』(講談社学術文庫)などで、『法句経』を学習しています。

今回は「ダンマパダ」73詩から93詩まで読みました。上記の第6章が中心でした。



2018.04.22 Sunday 18:15
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もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である

 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。『法句経』63詩

 

 3月25日(日)15時〜16時30分、東雲寺仏教講座「『法句経』を読む」第4回を開催。

 中村元訳『ブッダの真理のことば、感興のことば』(岩波文庫)の第4章「花にちなんで」51詩から第5章「愚かな人」72詩までを友松圓諦訳『法句経』(講談社学術文庫)邦訳や現代語訳、さらに同師の『法句経』(講談社)に収録されている漢訳、その読み下しを読みくらべながら、仏教の教えを学んでいる。

 自ら未熟で愚かである。私には学ぶことがまだまだある、あらゆる人やものごとから学びたいと思っているならば、そういう人を賢いと言うのだ。その逆に、自分は賢い、何でも知っている、もう学ぶことがない。そして自分以外の人々は愚かだ、と思っているようなひとは、本当の愚か者だということだろう。

 話は変わるが、映画『男はつらいよ 寅次郎 真実一路』(1984年12月)に「蒸発」した夫を捜す人妻(大原麗子)とともに旅する中で、人妻に心惹かれる自身を「醜い」と言う寅次郎に、妹さくらの夫・博が「にいさん、己の醜さに気づいている人間は決して醜くありません。本当に醜いのは自分の醜さに気づいていない人間です」と慰める場面がある。

 私は、『法句経』63詩の教えを読んだ瞬間に、寅さんの前述の「自覚」を思い出し、それは『法句経』の教えに通ずる「真実」を言っているに違いないと思った。

 



2018.03.25 Sunday 21:23
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原始仏典『法句経』を読む 

 東雲寺仏教講座で『法句経』を読むことにした。念のため申し上げるが、『法華教』と名前が似ているが、まったく違うお経である。『法句経』とは原始仏典のひとつで、お釈迦さまの〈生〉の言葉が記されているとされているものだ。『仏典解題事典』第二版(春秋社、1977年)の解説を見てみよう。

 

 法句経(ダンマパダ、真理のことば)。パーリ語で書かれた南方上座部の経蔵(小部)に含まれるテキスト。

 全編432の詩集で、これを対句・不放逸・こころ・花・愚か者・賢者・拝むに足る人・千の数・悪・むち・老・自己・世間・ブッダ・安楽・愛好・怒・汚れ・真理に生きる・道・雑集・地獄・象・欲望・修行僧・バラモンの26章に分類している。主として単独の偈(詩)を集め、時として二偈もしくは数偈が群をなす。この詩集の内容をよく見ると、ある時期に一人の人が書き下ろしたような作品ではない。原始仏教教団の中にあって、いろいろな形で伝えられていた詩を集めて、編集したものであることがわかる。編集の時期は、紀元前4〜3世紀であろうが、個々の詩ははるかに古い起源を有する。本経は仏教の倫理的教義を教えて仏道入門の指針としている。膨大な仏教経典の中でも最古のもので、ブッダの真意を伝えた珠玉の文字として珍重される。古来最も広く仏教徒に愛誦せられたもので、これほど古くまた広く仏教徒に読まれた聖典は他にないと言ってよい。したがってまた異本が多い。(後略)

 

 仏教講座で『法句経』を読み進めるために、以前より所持していた数冊の『法句経』関係の書籍の他に、新たにいくつかの現代語訳や講義本などの書籍を購入した。それらにざっと目を通して、講座での学習、検討材料として、四種の現代語訳や漢訳などを選択し、東雲寺仏教講座の独自教材を作成した。
 その四種の訳を『法句経』の中の一つの偈(詩)を例に見てみよう。『法句経』と言えば友松圓諦(1895〜1973年、日本の宗教家、仏教学者)と言われるほどの方だが、その友松師によるパーリ語経典からの邦訳と現代語訳を『法句経』(講談社学術文庫、1985年)から紹介する。まずはその独特な味わい深い邦訳。括弧内は友松師独特のふりがなである。

 

   意(おもい)は諸法(すべて)にさき立ち
   諸法(すべて)は意(おもい)に成る
   意(おもい)こそ諸法(すべて)を統(す)ぶ
   きよらなる意(おもい)にて
   且つかたり且つ行わば
   形に影がそうごとく
   たのしみ彼にしたがわん

 

 次に友松師による現代語訳。

 

 もろもろの事象は意志にしたがって生起する。それゆえに、意志はそれらに対して支配者であり、作者である。誰でも、もし純な意志をもって、或は語り、或は行うならば、やがて、たのしみは彼にあとづける。ちょうど、あの離れることをしない影のように。

 

 三つ目は紀元224年に支謙・竺将焔によって訳された漢訳経典を友松圓諦訳『法句経』(講談社、1975年)から紹介し、返り点を参考にしてその読み下し文(柚木の訓読)を掲げる。

 

  心為法本 心尊心使
  中心念善 即言即行
  福楽自追 如影随形
 
  心を法本と為す。心、尊く心に使わる。中心に善を念じて、即ち言い即ち行わば、福楽の自ら追うこと、影の形に随うが如し。

 

 四つ目は中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』(岩波文庫、1978年)の現代語訳。

 

  ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。    影がそのからだから離れないように。

 

 ここの「清らかな心」とは、仏教語の「清浄心」であり、この清浄は浄・不浄の浄の心ということではなく、「とらわれない心」「執着のない心」のことである。
 こうして複数の訳文を並べて見ていると、漢訳者たちのはたらきに深く敬服しつつも、私などはこれまでほぼ漢訳経典だけで仏教を学び、考え、教えを説こうとして来たようであり、忸怩たる思いがある。



2018.01.31 Wednesday 09:36
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法句経を読みました

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12月からの東雲寺仏教講座は、最古の原始仏典『法句経』を読み始めました。

 

   第一章 ひと組ずつ

1  ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。    車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。

 

2  ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。    影がそのからだから離れないように。


3 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨(うら)みはついに息(や)むことがない。

 

4 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。


5  実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

 

6 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう。    このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。


7  この世のものを浄らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。    弱い樹木が風に倒されるように。

 

8  この世のものを不浄であると思いなして暮し、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。    岩山が風にゆるがないように。

 

9  けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制が無く真実と無いのであるから、黄褐色の法衣にふさわしくない。 

 

10   けがれた汚物を除いていて、戒律をまもることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。▼

 

11 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことでないものと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。

 

12   まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。

 

13    屋根を粗雑に葺(ふ)いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。

 

14    屋根をよく葺(ふ)いてある家には雨の洩れ入ることが無いように、心を修養してあるならば、情欲の侵入することが無い。
 



2017.12.25 Monday 20:47
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東雲寺仏教講座「『正法眼蔵随聞記』を読む」を開講します
 1月29日(日)午後3時から東雲寺仏教講座を再開する。
 今後、月一回の開催予定だ。
 この度の仏教講座は、『正法眼蔵随聞記』をテキストにして「仏教とは何か」などを考えてみようと思っている。

 『正法眼蔵随聞記』(以下『随聞記』と略称)とは、日本曹洞宗の高祖、福井県の永平寺を開かれた道元禅師(1200〜53)が、嘉禎年間(1235〜8)に山城国深草(現在の京都市伏見区)の観音導利興聖宝林寺において、お弟子や信者さんたちに行った説法を、愛弟子の懐奘さま(1198〜1280、後の永平寺二世)が聞くに随って筆録したものを、懐奘さま没後にその弟子らによって編集された6巻の書物である。

 1229年11月以降のこととされるが、中国での修行をおえて帰国し京都建仁寺に身を寄せていた道元禅師を懐奘さまが訪ねる。正しい仏教・禅の教えを説く道元禅師に対し、懐奘さまは問答を仕掛けて論破しようとしたらしい。しかし、数日に及ぶ問答を通して、道元禅師の深い仏教理解と坐禅修行に対する確固たる信仰姿勢に感銘を受け、二歳年下の道元禅師に弟子入りを願い出る。が、道元禅師は「今は仮住まいだから」とお断りになられたと伝えられている。
 その後、1234年に道元禅師がご自身初の本格的な禅の修行道場・観音導利興聖宝林寺を建立、そこで布教活動を始めたところに懐奘さまが再び訪ねて来て、弟子入りし参随を始める。以後20年間、懐奘さまは道元禅師のお側近くで侍者という重役を務めた。さらに道元禅師遷化(僧侶が逝去すること)後も、禅師の墓所近くに庵を建てて、27年間、生前同様にお側にお仕えする生活を送り、道元禅師が遺された多くの著作や説法の記録などを収集、浄書、整理をされている。今日、私たちが道元禅師の著作を通じて、その教えに触れることができるのは、そうした懐奘さまのご努力のお陰なのだ。

 『随聞記』は懐奘さまが参随し始めた時期の三年余の間の道元禅師の説法の記録である。仏教の教えを学び日常生活の中で実践しようとする修行者の心得が記されており、仏教とは何かを考えるにはちょうど良いテキストだと思う。

 ところで、今日、私たちが目にすることができる古い時代の『随聞記』には、天台宗の僧侶が出版したとされる「慶安刊本」系と、面山瑞方校訂の「明和刊本(流布本)」系と「長円寺本」系とがある。それぞれ巻の配列、本文段章の分け方などに異同があるが、水野弥穂子先生の国語学的な研究成果などにより、「長円寺本」系が古い形を良く伝えているとされている。東雲寺仏教講座でも、原則として長円寺本を採用している水野先生訳のちくま学芸文庫『正法眼蔵随聞記』の本文を使用させていただく。
 その『随聞記』第一巻第一章段の説示。

   示に云く、はづべくんば明眼の人をはづべし。
   予、在宋の時、天童浄和尚、侍者に請ずるに云く、「外国人たりといへども元子器量人なり。」と云ッてこれを請ず。
   予、堅く是レを辞す。
   そノ故は、「和国にきこえんためにも、学道の稽古のためも大切なれども、衆中に具眼の人ありて、外国人として大叢林の侍者たらんこと、国に人なきがごとしと難ずる事あらん、尤もはづべし。」といひて、書状をもてこノ旨を伸べしかば、浄和尚、国を重くし、人をはづることを許して、更に請ぜざりしなり。

 自分の至らなさを自覚し愧じるということならば、ものの道理の見通せる人(明眼の人)からの指摘、批判をこそ恐れて気を付けるべきだという教えである。その通りだと思う。この文面からだけ考えると、誠に失礼ながら言葉は悪いが、名誉を取らず道理にしたがった、道元禅師の「自慢話」のような感じに受け取れないでもない。が、水野先生は、これは道元禅師が入門したばかりの懐奘さまを、先輩修行者を差し置いて侍者という重役に招請し、「ぜひとも、あなたに」と説得する際に言われた言葉ではないかと推論されている。
 


2012.01.27 Friday 18:55
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東雲寺仏教講座を再開します

東雲寺仏教講座のお知らせ


 2012(平成24)年1月より月一回の予定で東雲寺仏教講座を再開いたします。
 原則的に毎月第4日曜日の15時〜16時30分に開催の予定です。ただし、1月、2月は下記の日時に開催します。
 テキストには、東雲寺坐禅会会員の方のご要望で、道元禅師の教えをお弟子の懐奘さまが記録された『正法眼蔵随聞記』を用いて、「仏教とは何か」などを考えてみたいと思います。ぜひご家族ご友人とお誘い合わせの上ご参加ください。

                      
第1回 1月29日(日)15時〜16時30分
第2回 2月19日(日)15時〜16時30分   
第3回 3月25日(日)15時〜16時30分
 
 なお、申込みは、手紙、ハガキ、FAX、Eメールなどに
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  い完貊錣忙臆辰気譴詈のお名前など
をお書きの上、下記宛先まで申し込みください。


   住  所
             〒194-0044
             町田市成瀬4464 東雲寺
   FAX
             042−721−2964
   Eメール
            butudou-sogen@vesta.ocn.ne.jp   

 



2012.01.07 Saturday 21:31
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