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40億年、いのちの旅(図書紹介)

 金曜日夜に放送されるNHKの「チコちゃんに叱られる!」というバラエティ番組を楽しみにして毎回観ている。永遠の「5歳」という設定の少女・チコちゃんが、私たちにとって当たり前過ぎて疑問に思わないようなことをお笑いタレントの岡村隆史はじめ出演する大人たちに質問する。普段は考えもしなかったチコちゃんの「なぜ?」に回答者が答えに窮する。するとチコちゃんのCGの顔が大きく赤くなって「ボーっと生きてんじゃねーよ!」という決めぜりふで叱られるという出だしだ。その後に取材によって集められた専門家たちのコメントや研究成果などが紹介され、解答が示されるという番組である。
 1月11日放送の中のひとつは、地球がなぜ自転しているかという疑問だった。原始地球に大きな天体が衝突(ジャイアント・インパクト)して地球が誕生、自転し始めたという。それは46億年前のことである。当時は自転一回転4時間ほどだったが、月の引力などでブレーキがかかり、地球の自転はほんのわずかずつ遅くなっている(一年で5万分の1秒ずつ遅くなっている)という。現在、一日24時間だが、遠い将来には一日25時間になり、さらに遠い遠い遠ーい将来には、地球の自転が止まる・・・・・。


 皆さんも子どもたちの「なぜ?」にとまどったことはないだろうか。ときに子どもの「なぜ?」が大人にとってはいつの間にか自明のこととして考えることを止めていた何か、たとえば天地自然の〈真実〉や私たち自身の人生、生命などの〈真理〉にダイレクトにつながる疑問だったりして、大いに考えさせられることもある。

 昨年夏、岩波書店『図書』の新刊案内に岩波ジュニア新書『40億年、いのちの旅』という書名を見て、そういえば私は子どものときからこういうことをずっと疑問に思っていたんだと、はたと気づき、すぐに購入し通読した。そして今日でも手の届くところにおいて時々ページをめくってはつまみ読みを続けている。
 実は私は岩波ジュニア新書のファンで、この新書の新刊には常に注意を払って来た。最先端の研究や技術開発などをその分野の専門家が分かりやすく書き下ろしているもので、私などが何かを学び始めるには最適な入門書なのだ。

 『40億年、いのちの旅』によると、現在、地球上の「いのち」・生きものは三千万〜一億種存在するというが、その祖先を遡っていくと、40億年前の原始地球の海の中で生まれた原始細胞・「いのち」に辿りつくというのだ。
 46億年前に地球が誕生し、熱い火の玉だった地球が永い時間をかけて少しずつ冷えてきたころ、「原始地球において、水蒸気や深海の熱水の中で、雷、放射線、紫外線、エックス線、地熱などのエネルギーによって、二酸化炭素、水素、二酸化硫黄、窒素、塩酸、メタン、アンモニアなどの無機の気体から簡単な有機化合物(たとえばアミノ酸)がつくられ、次に小さな有機分子が結合しあってタンパク質のような有機高分子がつくられたと考えられ」るという(87頁)。
 40億年の「いのち」の旅を一日24時間にたとえるという解説もなされていた(80頁)。
 1月1日零時にいのちが誕生し、3月中旬にシアノバクテリアが酸素を発生し始め、6月中旬に真核生物が現れ、9月下旬に多細胞生物が出現したことになるそうだ。
 11月下旬になってやっと生物は海から陸に上がり、同じころ頃最初の脊椎動物である魚が登場。12月中旬ころから恐竜が地上の覇者として繁栄を誇っていたが、12月25日午後6時ごろに絶滅。7百万年前とされる、最初のヒトが登場したのは、大晦日の午前10時過ぎとなり、私たちホモサピエンスの登場は20万年前とされるが、それは新年まで残り20分ほどに押し詰まった午後11時40分ころのことだという。
 詳しくは『40億年、いのちの旅』の一読をお願いしたい。心に留めておきたいのは私の「いのち」が40億歳余ということと、私たちヒトや動物、植物、昆虫、菌類などの祖先を遡っていくと原始細胞の「いのち」に辿りつくという〈真実〉である。



2019.01.25 Friday 07:34
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日々変わらねど すべてに新たなり

 山形県上山市の寿仙寺住職・吉田時夫老師から季刊の『寿仙寺だより』110号(2019年1月)を頂戴した。これまでに二十七、八年間ご恵送いただいており、お元気でご活躍の老師の様子をお伝えくださる“便り”である。今回の「たより」の一面には青空のもと雪景色の寿仙寺のカラー写真と「日々変わらねど すべてに新たなり」と題した年頭の挨拶文が掲載されていた。四十五年ほど前、修行中の吉田老師が福井県の大本山永平寺で迎えた元旦の思い出が記されていた。

 

 住職が永平寺で勉強中の時のことです。元旦の朝を迎えると、法堂(はっとう=本堂)での朝のお勤めで、特別に禅師さま(永平寺の住職)に質問することが許されます。特に一年生は質問をするように先輩僧から厳しく指導を受けましたので、私も質問をすることになりました。時の禅師さまは目がご不自由でおられ、声に対しては特に配慮をしていたといいます。私の順番になりました。緊張の中での質問でしたので、文章的に正確だったかどうかは分かりません。
 「日々、朝・昼・夜の行事、坐禅、本講、作務(労働)に勤めています。今日も昨日と変わりません。修行僧にとって今日は何か特別の日なのでしょうか」
 これに対して禅師さまは私の心を斟酌して、はっきりと応えられました。
 「日々変わらねど すべてに新たなり」というものでした。
 いつもお正月を迎えると、この言葉がよみがえってきます。(後略)

 

 東雲寺の坐禅堂壁面に吉田老師から頂いた写真が三点掲示してある。坐禅堂入口の真上に「太白山天童景徳禅寺」(その昔、道元禅師が修行された中国の禅寺「天童寺」)の写真、その斜め左下に「大日如来」そして坐禅堂の奥の右側に「地蔵菩薩」。ひとつは吉田老師が1980(昭和55年)初冬に駒澤大学中国仏教史蹟参観団の一員として訪中した際に撮影した天童寺仏殿の写真であり、他の二つは、当時、吉田老師が休暇を利用して国東半島はじめ全国各地を訪れ撮影した石仏写真の中の二作品である。老師が東京都港区芝の東京グランドホテルで石仏写真の個展を開いたことがあり、そこで展示した作品の中から、後日、拙(わたし)が老師にお願いして頂戴したものである。
 実は吉田老師と拙(わたし)とは福井県の大本山永平寺で同時期に修行し、さらにその後、曹洞宗宗務庁(教団の本部事務所)にも一緒に勤務し、ほぼ二十年間、毎日顔を合わせ、週に一、二度は盃を傾けていた間柄である。

 老師はこれまでに数々の労著をものされており、代表作のひとつ『随想 曹洞宗と天皇制を考えるヒント』(1997年4月)が『山形新聞』「味読・郷土の本」欄に取り上げられることになった折には、当時、曹洞宗人権擁護推進本部事務局長を務めていた拙(わたし)に書評の依頼があった。以前、この書籍のもととなる四百字詰二百五十枚ほどのワープロ原稿を読み、ぜひ公刊すべしとお勧めした者として、推薦の一文を寄せて、その最後を次のように締めさせていただいている。

 

 (前略)「大逆事件」の「暗黒裁判」で死刑に処せられた内山愚童和尚の問題や、教団や宗教者の戦争荷担の問題についても多くのページを割いて検討し、吉田師は次のように言う。「今後同じ過ちを繰り返さない為にも、今日、この歴史をできるかぎり正確に理解し、その原因を見極め、歴史から学んでいかなければならない。これが自ら宗教人生を確立していく出発点のように思えてならない」と。
 ぜひ議論の素材とするため、教団内外を問わず識者の方がたの一読をお願いしたい。

 

 この書籍はその後に加筆増補され『曹洞宗と天皇制を考える』として2014年3月に東京新宿区の文芸社から新たに出版刊行されている。興味のある方、どうぞご一読を。
 吉田老師は常に「仏教とは何か」を確認する作業を続けつつ学びを深められ、その成果を『寿仙寺だより』にまとめ、檀信徒の方たちのみならず拙(わたし)などまで啓発くださっている。日々変わらねど、すべてに新たなりである。心して精進修行したい。



2019.01.07 Monday 09:33
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台風24号の強風により参道の桜が倒れる

 樹齢61年の参道の桜が台風24号の強風によって倒れてしまいました。

 ご覧のように石畳や参道の舗装、石垣なども壊れてしまいました。ただ、不幸中の幸いと言わねばならないのは、南風だったため東雲寺の前にある杉山神社や門前のお宅などの方ではなく、北側のYさんの畑に倒れてくれたことです。

 さっそくお檀家さんの植木屋さんに連絡を取り、伐採、除去していただく手はずになっています。

 このほか、東雲寺への車道に沿った北側の花桃が数本、倒れたり、太い枝が折れたりしています。

 境内墓地には枯れ枝や木の葉が吹き飛ばされて来ており、掃除が終わるには一週間以上かかると思われます。

 東雲寺の東側の丘の上に、2011年4月から13年4月まで3年間かけて植えた、早咲きのカンヒザクラや河津ザクラなどから遅咲きの八重桜まで、8種類36本の桜の内、3本が根元から倒れ、さらに2本は風に煽られて北方向に傾いてしまっています。植木屋さんたちが街の中の街路樹の倒木などの片付けが終わったら、駆けつけて来てくれるそうです。



2018.10.01 Monday 12:56
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ともおさんが撮影しました

 

丹沢山系の山々の下方に少し低い山々があり、雲の切れ間から、偶然、その低い山々だけに陽の光が射していました。

8月8日か9日の写真だそうです。東雲寺の東側、高台の住宅から、ともおさんが撮影しました。



2018.08.24 Friday 14:22
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懺悔滅罪〜あの涕泣の理由〜

  私が生まれ育った福島県二本松市の大隣寺では毎月17日夕刻に「お逮夜(おたいや=忌日前夜の読経法要)」を行っていた。現在は師父・二十七世大徹祖堂大和尚(昭和57年11月25日示寂)の月忌命日逮夜である毎月24日に移行、修行されている。
 17日は大隣寺二十五世黙雄領禅さま(昭和4年7月17日示寂)の月忌命日、二十六世禅機魁学さま(昭和20年12月18日示寂)の月忌命日逮夜にあたり、毎月17日の夕方に寺内全員で『修証義(しゅしょうぎ)』を読誦供養していた。『修証義』は五章で構成されており、下記のように1月は一章、2月は二章というふうに読んでいた。
  第一章「総 序」
    1月、6月、11月
  第二章「懺悔滅罪」
    2月、7月、12月
  第三章「受戒入位」
    3月、8月
  第四章「発願利生」
    4月、9月
  第五章「行持報恩」
    5月、10月
 私が小学校低学年当時、毎月17日午後に福島県内各地から数名の住職方が大隣寺にお出でになり、寺内の者たちとともに『修証義』を読誦、お逮夜法要を修行していた。遠方の方はその夜一泊されて翌朝お帰りになったりした。その頃、お客さまがお寺に宿泊されることが珍しいことではなかったが、私たち子どもにとってお客さまが来るというのは、なんとなく嬉しいような、ウキウキするようなできごとだった。
 それはたぶん7月のお逮夜の日のことだったと思うが、福島県内K町G寺さまが大隣寺にお見えになった。G寺さまは到着するとすぐに玄関の次の間にあった庫裡のお仏壇にお線香を上げてお詣りされた。
 7月だから『修証義』第二章「懺悔滅罪(さんげめつざい)」を読む月だった。第二章は他の章より短く、法要が少しだけ早く終わって夕食になるし、私の誕生月の2月に読む章だったことなどから、私は第二章が好きだった。そういうわけで懺悔滅罪の意味も知らずに、考えもせずに、仏壇にお詣りしていたG寺さまに「懺悔滅罪やっぺない(やりましょう)」と言うと、G寺さまが声を上げて泣き出してしまった。大の大人が啼泣したことに驚き、その記憶が心に深く刻まれたが、なぜ泣いたのかの理由については近年までよく分からずにいた。


 母・真観院松雲妙韻禅尼(故高松ことさま、平成30年6月18日逝去、享年97歳)が最晩年に昔の思い出を私に手紙で書き送ってくれていた。以下はその一節である。

 

  (前略)ご前様(大隣寺二十五世黙雄領禅さま)がお留守の時は魁学方丈(後に二十六世となる禅機魁学さま)が代わって修行の指導をしたようです。間もなく魁学方丈が高林寺の住職となり、ある時、ご前様のお留守の時、大隣寺に来て修行僧を監督し、暗くなって帰路につき、途中で安達ヶ原の観世寺の辺りで忘れ物を思い出して引き返して来たら、お寺は真っ暗、もぬけの殻、坊さん逹は皆で遊び(芝居)に行ったとのことです。魁学様は玄関に坐禅して待って居たら、暫くして賑々しく皆が帰って来たのだそうです。魁学様が凄い顔で居たので皆で蒼くなり、坐禅させられ警策(きょうさく)をバッチバッチと打たれたのだそうです。中でも首謀者のK町のG寺様は警策が折れてふっとび、肩の肉が裂け血が出て、玉泉寺様は恐くなって実家に逃げ帰り、親戚の医者に手当てをして貰って、診断書を書いて貰ひ警察に訴えたとのこと。
  警察が大隣寺に来て、魁学様を出せと云う声を聞き、ご前様が奥から玄関に出られ、修行中のことは何人も口出しは無用と鶴の一声で収まったのだそうです。G寺様は、後日、人を介して詫びを入れ、大隣寺に戻った由。
  G寺様と梅侃さんは申し合わせて、七月十七日にはよく来山なさいました。時にはご前様のお弟子が沢山集まって巨邦会(大隣寺の山号に因む会名)等で一泊なさいました。警策の件はその折の話です。G寺様はあの警策で今自分が坊さんをして居られるのだと仰いました(後略)

 

 今日では傷害事件となる事案だが、戦前の叢林(そうりん=禅の修行道場)でのことだ。警策で懲らしめの指導があり、このことがG寺さま啼泣の背景にあったようだ。



2018.07.12 Thursday 10:32
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青少年教化員という名称が変更された背景

 5月20日ころだったと思うが、東雲寺にボーイスカウト東京連盟町田地区町田第七団の方が、長い間有り難うございましたと解団の挨拶に来てくださった。実は昨年末にも第七団の方が東雲寺にお出でになり、大晦日のときに毎年行っていた奉仕活動  除夜の鐘に来た方たちに焚き火の暖と温かい甘酒を提供することを、少子高齢化によって今年からできないという話があり、そして年度末の今年3月に解団すると予め知らされていた。
 第七団のキャンプ地が東雲寺裏手の丘の上、成瀬尾根の山道沿いにあるお寺の山林の中にあった。週末の朝や夏休みなどに拙が境内の掃除をしていると、スカウトの制服を着た小さな子どもたちがリュックを背負い保護者と一緒にキャンプ地に向かう姿をよく見かけた。また、土日などで一泊二日のキャンプのときには、当番の子どもたち二、三人が、東雲寺の水道からポリタンクに水を汲み、重そうに運び上げていた。
 いつから、どういう経緯で、東雲寺の山林内の場所をスカウトのキャンプ地として貸すことになったのか不明だが、東雲寺檀徒のSさん(故人。30年ほど前に数年間、東雲寺坐禅会に参加)がスカウト活動に熱心で、日本連盟か東京連盟などで重職にあった方のはずだ。たぶんこの方や檀信徒総代さん、先代住職との間でキャンプ地使用の話がなされたのではないかと思う。
 曹洞宗にも曹洞宗スカウト協議会というスカウト活動、社会教化活動を支援する組織があって、スカウトの進級に必要な「宗教章」取得のための研修会や全国各地、世界各地で行われるジャンボリーでの宗教礼拝を行うなどのとりくみを行っている。1974年4月、私も曹洞宗宗務庁(曹洞宗本部事務所)に奉職して間もない時期の数年間、この協議会の事務局をしていた。当時、宗務庁内の組織改革があったのだが、私が配属される直前まで曹洞宗布教部に「青少年課」というセクションもあった。ボーイ・ガールスカウト活動、夏休みの子どもたちを対象にした「緑陰禅のつどい」などを運営、活動するための技能を持つ青少年教化員という資格者を養成、活動を支援するなどしていた。しかし今日では、少子化や子どもたちを取りまく環境の変化などによって、スカウト活動も低迷し、禅のつどいの開催や日曜学校活動なども以前と比べて非常に少なくなって来ているようだ。また、近年、少子化のため全国各地で寺院住職が携わって来た幼稚園や保育園の閉園が相次いでいると聞く。
 今年2月下旬に開催された曹洞宗の定例議会で教団の規則や規程の変更が行われた際、「青少年教化員」という名称が「教化指導員」に変えられた。青少年教化員に任命されても、僧侶、住職として青少年対象に寺院内外で活動する場、機会がほとんど無くなってしまったためだろうと思う。
 今月の18日に先代住職・柚木能宣大和尚の一周忌を迎える。先代の遺品、就中、夥しい冊数の各種記録ファイル、蔵書などの整理をしている中で、「品川区伊藤国民学校 東雲寺疎開児童寮歌」と「東雲寺日曜学園 志のゝめ音頭」という楽譜を見つけた。いずれも「作詩 柚木能宣」とあった。「志のゝめ」は「東雲(しののめ)」のことだろう。寮歌は後述する「駒大児教」で活動していた時期、音頭は楽譜の右上に昭和23年4月13日とあるから、たぶん南多摩郡南村立南第二小学校の代用教員になりたてのころと思われる。先代は子どもたちに対する教化、教育に強い関心を持っていた。
 先代は戦中戦後の駒澤大学学生時代、児童教育部(内外から「駒大児教」と呼ばれた名門クラブ)に所属し、世田谷区の常徳院や横浜市鶴見区の大本山總持寺の日曜学校を担当、子どもたちとともに遊び、学び、仏教の教えを伝える活動をしていた。夏期の巡回伝道では全国各地へ部員数人で班を組んで出かけ、人形劇や舞踊、童話、ゲームなどを通して伝道活動を行った。
 先代が青春を捧げた駒大児教も2012年3月に廃部、約百年の活動に幕を閉じている。



2018.06.03 Sunday 22:25
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周行七歩

 先週日曜日の4月8日は仏教の開祖お釈迦さまのお誕生日「花まつり」だった。
 毎年、東雲寺では花まつりの前日、4月7日に東雲寺梅花講(仏教賛歌である詠讃歌〈御詠歌や御和讃〉をお唱えする信仰組織)のご近所の講員さん数名の方にお願いして花御堂作りをしていただく。花屋さんから季節の花を求め、さらに各家の庭先に咲く花などを持ち寄っていただき、お堂の屋根(屋根張60センチ四方)や柱などに花々を糊付けして飾る。4月8日当日の早朝に右手で天を指し左手で地を指す独特の姿の誕生仏を花御堂内の浴盤(直径30センチの金属製のたらい)の中央にお祀りし、甘茶をたらいに五分ほど注ぎ入れ、お釈迦さまの頭上から甘茶を濯ぐ。朝の勤行で降誕会のお経を読み、午後一時半からは梅花講の皆さんによって詠讃歌を奉詠して、お釈迦さまのお誕生をお祝いする。いつもの年ならば桜が満開の時季と重なることが多く、大勢の方が花見が訪れ、花御堂にお参りされるのだが、今年は葉桜で参詣者もまばらだった。
 四半世紀ほど前のことだが、曹洞宗宗務庁(曹洞宗教団の本部事務所)に勤務していた折、4月8日に役職員全員が参列して釈尊降誕会法要が修行され、その後、石附周行伝道部長(当時。現在、大本山總持寺副貫首、大雄山最乗寺住職)が花まつりに因んで法話をしてくださった。その冒頭、ご自身の「周行」という名は、お釈迦さまがお生まれになってすぐに四方に七歩あまれて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と仰られたとされる「周行七歩」に由来することを話された。当時すでに拙は周行老師を存じ上げて二十年ほどになっていた。心から尊敬し憧れの禅者・周行老師のお名前のことさえ理解していなかった拙の勉強不足を恥ずかしく思ったことである。
 1243(寛元元)年に道元禅師が京都から越前(福井県)へ移住し、翌年に大仏寺を建立、その二年後の1246(寛元4)年6月15日に寺号を永平寺と改称した際の説法に「(前略)世尊降誕して、一手は天を指し、一手は地を指し、周行七歩して云く、『天上天下唯我独尊』と。世尊道えることあり、これ恁麼なりといえども、永平道うことあり、大家(この場の皆さん)証明すべし。良久して云く、天上天下当処永平」(『永平広録』177)という教えもあった。
 なお、東雲寺の六角釈迦堂に奉祀されている白鳳時代の誕生仏は、左手を上に右手を下にしている。これには「古代の作例四例が知られるのみで、中近世の例はなく、教義的な根拠は見当たらない。/なお、南伝仏教(中国南部以南―インドシナ、タイ、マレーシア等)の遺品は左手を上げているものが多いが、その関連は定かではない」という田中義恭氏(東京国立博物館資料第一研究室長・当時)の解説がなされている。
 お釈迦さまの誕生に関するもっとも古い伝承と思われることが、原始仏典の中で最古のもののひとつとされる『スッタニパータ』 の中にある。中村元訳『ブッダのことば(スッタニパータ)』(岩波文庫)の679〜698詩句である。
 その概要は、アシタ仙人(シャカ族の宮廷僧)が坐禅をしているときに、帝釈天や30人の神々が踊りあがって喜ぶ様子が見えた。それはシャカ族のルンビニ村に、やがて〈さとり〉を開いて仏となるであろう菩薩が、多くの人びとの利益安楽のために人間界にお生まれになったからだという。そこでアシタ仙人は、その菩薩に会いに行き「黄金のようにきらめき幸福に光り輝く尊い顔の児」、「月のように清らかで、太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ」た。「仙人は、こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。   その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて、黄金の飾りのようであった」。仙人は「シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、(特相を)検べたが、心に歓喜して声を挙げた。   『これは無上の方です。人間のうちで最上の人です。』」と言ったというのだ。
 この原始仏典の段階では「周行七歩」や「天上天下唯我独尊」などの伝説はまだできていなかった。



2018.04.15 Sunday 20:43
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どこにあった道しるべなのか?

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 東雲寺の鐘楼堂の近くに、かつて旅人たちを案内したであろう「左 東海道」「右 中仙道」という石柱の道しるべがあります。

 先代住職にどこにあったものかを尋ねたことがありましたが、分からないとのことでした。

 成瀬を含む旧南村地区内の街道沿いのどこかにあったのだろうと思います。

 



2018.04.04 Wednesday 13:15
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そもそもなぜ葬儀をするのか を 考えてみませんか

 今年最初の坐禅会の後でHさんからお手紙と自作の漢詩をいただいた。Hさんは折にふれてお手紙や漢詩を届けてくださる方である。氏はお仲間とともに漢詩や写真などの趣味の活動をなさっておられ、東雲寺坐禅会には1987(昭和62)年から参加くださっているベテランの参禅者だ。また、毎月第四日曜日午後開催の東雲寺仏教講座だが、6年ほど前に一時中断していた折、「『正法眼蔵随聞記』を読む」で再開するきっかけを与えてくださった方でもある。

 

  (前略)12月3日の「坐禅会たより」で「そもそもなぜ葬儀をするのか」(12月10日ブログ掲載)の一文を掲げられましたが、私も最近の親族の葬儀で「哭薄葬(こくはくそう)」という漢詩を作りました。
  「焼き場」でご遺体を焼却し、そのまま後日、市営墓地に納める。儀式も永別のご挨拶もしない。一体どういう事でしょうか? 「たより」の一文も現代の風潮をただ報じているだけではないのでしょうか? 具体的な対応策を提案できないのでしょうか? 葬儀の簡略化と精神的な家族の結びつきの崩壊とは関係がないのでしょうか? 人類は時代とともに「儀式」を考案して精神の作興(さつこう)と社会の維持を図ってきました。さらに宗教者がその役割を担ってきたのだと思います。
  やさしい社会をと言われるだけで、恐ろしい犯罪とも言えない理解に苦しむ事件が続発しております。
  家族制度の崩壊により、「本家」は存在しなくなり、我が家では分家の長男である私が本家の代わりを果たしておりますが、これにもおのずと限界があります。今まさに「眷属(けんぞく)の他人化」が始まっているのでしょう。
  「死者儀礼の放棄」から「良俗の崩壊」に突き進み社会は「混沌化(こんとん
か)」するのでしょうか。
  友人にこの話をしても「今は、何処でもそうだよ」と平然としております。自分も高齢となりこの先が分からなくなってきております。
  ぜひ問題提起のみではなくて、住職が現実と向き合って我々大衆をお導き頂けたら幸いです。

 
    哭薄葬
  十月の寒風 故人を哭し
  子孫眷属 愁ひを抱きて顰(ひそ)む
  忽忙(そうぼう)たり身世(しんせ) 黄梁(こうりょう)の夢
  寂寞(せきばく)たり  何ぞ堪へん 総て塵と為るとは

 
 漢詩後半の二句の意味を推し量るに、葬儀に参列して思うことは、私たちの一生はせわしく、人生は儚(はかな)い。最後はすべては塵のように取るに足らないものになってしまい、もの寂しい限りだなぁというような意味だろうか。

 

 漢詩をいただいたこともさることながら、「そもそもなぜ葬儀をするのか」に対して、Hさんがこうしたご意見をお寄せくださったことに対し心から御礼を申し上げたいと思う。願わくはブログ読者各位におかれても、このことに関するご意見ご感想などをぜひお寄せいただきたい。
 

 お手紙にあった宗教者は現実と向き合って大衆を導いてほしいということについての応答は暫く猶予をいただきたい。その代わりに現状認識を共有し、ご意見ご感想などをいただくため、私が近年の葬儀において見聞きし感じていることのいくつかを以下に記す。ご一読願いたい。


 高齢者の葬儀の場合、家族や近しい親族でも高齢のため参列できず、しない場合が多い。まして友人知人の参列などはほとんどない。さらに少子化、晩婚化、生涯独身者の増加などによって、故人を送る側の人数が少なくなったように思う。親と子や孫たちとが同居しておらず、家計が親子別々なためか、5、60歳代の子であっても喪主を務めず、高齢の配偶者などが喪主になるケースが多い。親子同居せず、あるいは近所に住んでいない子たち次世代へ、地域社会の付き合いや慣習、寺院との関わりなどが伝承されなくなっている。そしてこの次世代の人たちへの東雲寺からのアプローチ手段、接点が、現時点ではほとんど無いのだ。



2018.01.31 Wednesday 09:56
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境内の紅葉

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2017.11.25 Saturday 10:29
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