2017年10月23日(月)14時から港区西麻布の大本山永平寺東京別院長谷寺で、国立歴史民俗博物館民俗研究系准教授の山田慎也氏を招いての研修会があった。概要を報告する。(文責、柚木)
山田氏は大学院時代から和歌山県などで葬儀の手伝いをしながら聞き取り調査をして来た。90年代前半までは山田氏も近所の方たちに交じって葬家に入り、納棺や葬儀の準備、手伝いをすることができたが、90年代後半には葬儀のすべてを葬儀社に任せる形に変化した。
私たちは自分で体験できない「不可知の死」を他者の死を通して受け容れるのだが、葬儀とは生者と死者を区分し新たな関係を構築することである。土葬や火葬によってご遺体の形を変え、恐怖や悲嘆を宗教儀礼によって癒やしていく。先祖になり、ホトケになるということで死の意味づけをし、最初に焼香するのが喪主ということなどで、社会的な役割を再分配する。それが遺産相続などにもつながっていく。
かつての葬儀は生活空間である家から寺へ、寺から墓地へ遺体を運ぶ野辺送りが中心だった。その過程、過程で読経が行われた。今日でも行われている式次第の臨終諷経(りんじゅうふぎん〈枕経 まくらぎょう〉)、剃髪(ていはつ)、授戒(じゅかい)、入龕諷経(にゅうがんふぎん)、大夜念誦(たいやねんじゅ)、挙龕念誦(こがんえんじゅ)、引導法語(いんどうほうご)、山頭念誦(さんとうねんじゅ)、安位諷経(あんいふぎん)が実際に行われた。
江戸時代から重視されていた葬列が明治期に華美、高額となって批判がおこった。中江兆民は「葬儀無用」と遺言したが、近親者などが無宗教の告別式を行い、約1000人が参列した。
葬列に加わることが参列だったのだが、告別式の普及によって、参列者は現地集合し焼香して解散という形に変わった。
自宅からお寺、そして墓地へという移動をやめて自宅告別式が行われるようになった。最初は棺を運ぶ輿を安置し、その前で葬儀が行われていた。大正、昭和初期からは祭壇が設けられるようになり、遺影が飾られるようになった。このころから葬儀は死者をあの世に送るということよりも、国葬や市町村葬、社葬などで現世での功績を称える、生前の総決算の場になった。
戦後の葬儀は引導作法の行われる葬儀と告別式が一体化し、家的葬儀よりも社会的葬儀となり、会葬者も増加、お通夜が告別式化していった。そして地域共同体に代わって葬儀社が葬儀を行うようになる。
現在、葬儀の簡略化が進み、七日七日の法要や百ヵ日忌が行われなくなり、儀礼の意味も分からなくなっている。僧侶も葬儀に部分的にしか関与せず、一方で戒名のインフレ化がおこり、経済取り引きのようなことが批判されている。
バブル崩壊後、少子高齢化が進み、終末期医療の長期化によって経済的に困窮するとか後継者がいないなどの問題が顕在化し、会葬を辞退する「家族葬」、通夜なしの「一日葬」、儀礼を必要としない「直葬」が出現。関西では火葬場から遺骨を持ち帰らない「〇葬(ぜろそう)」もある。さらに「散骨」「樹木葬」などが行われ、既存の墓も「墓じまい」して「永代供養墓」への合祀がなされている。こうした状況は都市から地方へ広がっていく。
そもそもなぜ葬儀をするのかを皆で考えなければいけない。「死」を認識できるのは人間だけだ。大津波ですべてを流された高齢者施設の前にジュースが供えられ、事故現場にたくさんの花が供えられている。仏壇に食べ物を供える。死者がジュースを飲むのか、食べ物を食べるのか、と聞かれたら、誰も飲む、食べるとは言わない。けれども、その供えてしまうメンタリティ。これこそが死者を思う一つの原点であり、死者儀礼の基本だろう。そうしたことをどうやって改めて現代の葬儀の中で認識し、認識させていくのか。つまり「死」の意味づけということが必要である。そのときに僧侶への信頼というものも問われてくる。一般の人々と僧侶とが疎遠になっており、対話を通して相互に理解し合うことが必要だ。
家的葬儀が限界を迎え、「家族」自体も限界に来ている。死者を追悼し、死者と生者とのつながりを改めて作り上げていく死者儀礼が必要。そこに宗教者が果たすべき大きな役割がある。