Calendar
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< August 2018 >>
NewEntry
Profile
Category
Archives
Comment
Search
Link

Favorite
素材満載 ブログで作る かんたんホームページ [CD-ROM付き]
Mobile
qrcode
Sponsored Links
<< 原始仏典『法句経』を読む  main 立春が過ぎ、東雲寺境内の紅梅が開花 >>
そもそもなぜ葬儀をするのか を 考えてみませんか

 今年最初の坐禅会の後でHさんからお手紙と自作の漢詩をいただいた。Hさんは折にふれてお手紙や漢詩を届けてくださる方である。氏はお仲間とともに漢詩や写真などの趣味の活動をなさっておられ、東雲寺坐禅会には1987(昭和62)年から参加くださっているベテランの参禅者だ。また、毎月第四日曜日午後開催の東雲寺仏教講座だが、6年ほど前に一時中断していた折、「『正法眼蔵随聞記』を読む」で再開するきっかけを与えてくださった方でもある。

 

  (前略)12月3日の「坐禅会たより」で「そもそもなぜ葬儀をするのか」(12月10日ブログ掲載)の一文を掲げられましたが、私も最近の親族の葬儀で「哭薄葬(こくはくそう)」という漢詩を作りました。
  「焼き場」でご遺体を焼却し、そのまま後日、市営墓地に納める。儀式も永別のご挨拶もしない。一体どういう事でしょうか? 「たより」の一文も現代の風潮をただ報じているだけではないのでしょうか? 具体的な対応策を提案できないのでしょうか? 葬儀の簡略化と精神的な家族の結びつきの崩壊とは関係がないのでしょうか? 人類は時代とともに「儀式」を考案して精神の作興(さつこう)と社会の維持を図ってきました。さらに宗教者がその役割を担ってきたのだと思います。
  やさしい社会をと言われるだけで、恐ろしい犯罪とも言えない理解に苦しむ事件が続発しております。
  家族制度の崩壊により、「本家」は存在しなくなり、我が家では分家の長男である私が本家の代わりを果たしておりますが、これにもおのずと限界があります。今まさに「眷属(けんぞく)の他人化」が始まっているのでしょう。
  「死者儀礼の放棄」から「良俗の崩壊」に突き進み社会は「混沌化(こんとん
か)」するのでしょうか。
  友人にこの話をしても「今は、何処でもそうだよ」と平然としております。自分も高齢となりこの先が分からなくなってきております。
  ぜひ問題提起のみではなくて、住職が現実と向き合って我々大衆をお導き頂けたら幸いです。

 
    哭薄葬
  十月の寒風 故人を哭し
  子孫眷属 愁ひを抱きて顰(ひそ)む
  忽忙(そうぼう)たり身世(しんせ) 黄梁(こうりょう)の夢
  寂寞(せきばく)たり  何ぞ堪へん 総て塵と為るとは

 
 漢詩後半の二句の意味を推し量るに、葬儀に参列して思うことは、私たちの一生はせわしく、人生は儚(はかな)い。最後はすべては塵のように取るに足らないものになってしまい、もの寂しい限りだなぁというような意味だろうか。

 

 漢詩をいただいたこともさることながら、「そもそもなぜ葬儀をするのか」に対して、Hさんがこうしたご意見をお寄せくださったことに対し心から御礼を申し上げたいと思う。願わくはブログ読者各位におかれても、このことに関するご意見ご感想などをぜひお寄せいただきたい。
 

 お手紙にあった宗教者は現実と向き合って大衆を導いてほしいということについての応答は暫く猶予をいただきたい。その代わりに現状認識を共有し、ご意見ご感想などをいただくため、私が近年の葬儀において見聞きし感じていることのいくつかを以下に記す。ご一読願いたい。


 高齢者の葬儀の場合、家族や近しい親族でも高齢のため参列できず、しない場合が多い。まして友人知人の参列などはほとんどない。さらに少子化、晩婚化、生涯独身者の増加などによって、故人を送る側の人数が少なくなったように思う。親と子や孫たちとが同居しておらず、家計が親子別々なためか、5、60歳代の子であっても喪主を務めず、高齢の配偶者などが喪主になるケースが多い。親子同居せず、あるいは近所に住んでいない子たち次世代へ、地域社会の付き合いや慣習、寺院との関わりなどが伝承されなくなっている。そしてこの次世代の人たちへの東雲寺からのアプローチ手段、接点が、現時点ではほとんど無いのだ。



2018.01.31 Wednesday 09:56
住職雑感 comments(0)
スポンサーサイト


2018.08.13 Monday 09:56
- -
comment




/PAGES