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暑い夏が来て 原爆忌 敗戦記念日が廻り来る 

 毎日、全国各地で最高気温が35度を越え「命に関わる危険な暑さ」というニュースが報じられている。こんなにすごい酷暑の夏は初めての経験だが、暑い夏が来ると「原爆忌」や「敗戦記念日」の季節が廻って来たことを感じる。
 私の実母・真観院松雲妙韻禅尼(高松ことさま、平成30年6月18日逝去、享年97歳)が最晩年に昔の思い出を手紙で書き送ってくれていた。以下は亡夫・高松祖堂大和尚(福島県二本松市大隣寺27世住職、昭和57年11月25日遷化、世寿67歳)の軍隊時代の話を紹介する一文である。

 

 祖堂和尚は戦争の話を余りしませんでしたが、35年の間チョクチョクと語ってくれた事を今日は思い出すまま書いて見ます。
 祖堂和尚は危うく命を落としそうな時が三度あったとのことですが、その都度、戦友(部下)に助けられて、今が在るのだとつくづくみ仏が守ってくれたと感謝して居りました。
 一兵卒の頃、第一線での闘いでさんざんな負け戦で戦死者は出る、負傷者はごろごろの時、臀部から脚にかけて弾が貫通し、出血がひどく失神して居た祖堂和尚を浪江(福島県双葉郡浪江町)の本山さんという兵隊さんが負ぶってトラックに乗せ、野戦病院まで付いて行ってくれたそうです。負傷者が大勢あったその中を何故か本山さんが祖堂和尚を助け背負ってくれたこと、観音様ですね。
 戦後、その方が訪ねて来た時、「オー、命の恩人だ」と抱きついて喜び、共に生還したことに感激して居りました。
 一兵卒への手当は悪く脚が腐って来て、軍医が股から切断だと言ったのだそうです。側に居た衛生兵が軍医が去ってから「大隣寺の息子ではないか」と声をかけてくれ、「暗くなったら病棟の裏に来るように」と言われ、暗くなるのを待って行ったら、注射を一本打ってくれたのだそうです。二本松出身の兵隊さんだったのですね。一兵卒になど用いない高価な注射だったらしく、腐りが止まったので、軍医が不思議がってオカシイ、オカシイと首をかしげて居たそうです。
 戦後、この方も二度ばかり訪ねて来られましたが、恩に着せるふうのないよい方でした。やはり二本松人でしたね。
 任官してから大変な激戦で「今出たら危ない」との軍曹の言葉を聞かないで祖堂和尚が飛び出して了ったのだそうです。軍曹が直ぐ追いかけ、祖堂和尚を抱きかかへ、元の陣地に戻った途端、飛び出したその場所に爆弾が落ち、一足間違えたら木っ端微塵になるところだったと祖堂和尚が言って居りました。後にその方は何度も訪ねて来られました。その度に命の恩人と大事にもてなして居りました。我が家にお泊まりになったりしました。
祖堂和尚は、その都度、助ける神(仏)が現れて、お陰で帰れたと何時も感謝して居りました。
今まで一緒に戦って居た戦友が目の前で戦死。その人に気遣って居たら自分が危ない。戦争は本当に生きるか死ぬか紙一重だったと言ってました。
 天皇陛下バンザイと言って倒れた人は野戦病院から負傷が治って再び戦場に戻ったそうです。オカアチャーンと最後に叫んだ兵隊は戦死されたそうで、人間は最後はオカアチャーンだと言って居りました。

 

 50年以上前、私たち子どもが、当時テレビ放映されていた『コンバット』や『遊撃隊』などの軍隊ものの番組を観ていると、父・祖堂大和尚がやって来て「戦争はこんなもんじゃない!」と言って、テレビのスイッチを切ってしまうことがあった。
 「天皇陛下バンザイ!」「オカアチャーン!」の話は、父が母に話をしているときに聞いたのか、別の機会だったのか不明だが、私も耳にしていた。父の尻には確かに銃弾貫通の傷痕があった。これまで詳しくは知らなかった負傷後の経緯について、数年前の母の手紙で知った。
 「私」たちは戦場での生死紙一重の体験を想像できるか。



2018.07.23 Monday 10:30
人権・平和・環境 comments(0)
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