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<< 暑い夏が来て 原爆忌 敗戦記念日が廻り来る  main ともおさんが撮影しました >>
原爆忌・敗戦の日に 反戦・平和を誓う

 東雲寺坐禅会で参加者の皆さんにお配りしている「坐禅会たより」が800号になった。坐禅会にご参加の皆さま、「たより」をお読みくださっている皆さま方のお励ましのお陰であり、心から感謝申し上げている。
 800号に因んで、皆さまのご意見ご感想などをお寄せいただければありがたい。よろしくお願い申し上げます。
 「坐禅会たより」第1号は1989(平成元)年6月であり、今年の夏でちょうど30年になる。一面では道元禅師のお教えを学び、二面ではそのときどきに拙が関心をもったことがらを書き綴って来た。今夏は、亡き母(眈召海函■横娃隠検卻神30〉年6月18日逝去、享年97歳)が晩年に私宛てに書き送ってくれていた「思い出話」の手紙を紹介している。

 8月6日は「広島原爆忌」、9日は「長崎原爆忌」、15日は「敗戦」の日だ。「終戦」は日本政府がポツダム宣言の履行等を定めた休戦協定(降伏文書)に調印した1945(昭和20)年9月2日だろうか。
毎朝のお勤めの中で世界平和の実現や人々の安寧や幸福を祈っているが、8月に入り、原爆忌や敗戦記念日が近くなると、改めて「どのような理由の戦争もしてはいけない、させてはいけない」と強く思い、誓いを新たにしている。 

 
 今回、紹介する「思い出話」は、戦後、夫の大隣寺27世住職眈樵墜佳舅他阿ら聞いた、戦地から引き揚げるときの話である。

  

 「日本は負けた」戦地から退却の軍隊の輸送の係は、祖堂和尚が指揮を取り、トラックに負傷して居る兵士、衰弱して居る兵士を詰め込んで送り出し、最後のトラックが出発する許りの時、行軍にはとても耐えられない弱り切った兵士を見つけ、よく見たらS寺さんでびっくり。「S寺か」と声をかけ、「ハイ」と言うので、「オレは大隣寺だ。これが最後のトラックだ。何としても乗せるから」と、ギュウギュウ押し込んで送り出したとのことです。それでS寺さんは祖堂和尚より八ヶ月も早く還ったとのことです。
残った者はあの大陸を中支から港(?)まで行軍で日中は中国の人らに石をぶつけられ、オシッコを引っかけられて歩けなくて、夜ばかりの行軍で、目印に前の人のリュックに下帯を下げ、ぼんやり白い下帯を見失わないように、もう夢中で母国に帰りたい一心でもくもくと歩いたとのことです。一ヶ月も歩くとそこに駐屯し、その辺りを耕し何かを作れと上部からの命令で、我慢我慢と皆を励まし助け合って帰国、復員したそうです。
 その暗中行軍の折、祖堂和尚付の上等兵が衰弱して了って皆で荷物をかついでやり肩を貸して歩いてゐるうちにバタリと倒れ息が絶えて了ったとのことでした。朝の勤行の折、祖堂和尚は何時もその兵士の名を称え泣いて居りました。

 

  中国大陸などからの引き揚げは兵隊も民間人も大変な苦労をしたという話を聞いている。
 母は、1922(大正11)年6月14日、福島県伊達郡上保原村の泉福寺住職・熊野龍範さまとその妻サダさまの四男四女、上から五番目の三女として生まれた。地元の小学校を経て福島県立福島高等女学校へ進み、1939(昭和14)年3月に卒業している。この「福女」卒を母は誇りにしていたし、その級友との交流は晩年まで続いていたようだ。娘時代の母は、群馬県高崎市、旧多野郡吉井町の延命密院住職のもとに嫁いだ長姉のもとで行儀見習いをしたり、江戸川区東葛西、旧長島村の自性院に住職した兄のもとへ甥誕生の折に家事手伝いに行ったりした。
 このころ戦争が徐々に深刻な状態になる。1943(昭和18)年5月ころ召集され南方に送られた自性院の「明海兄さん」は、三歳と一歳の子どもたちを残して戦死、母のすぐ上の次姉「トミちゃん」の夫も戦死している。
 母は戦争中は福島県庁に勤めていた。男たちが兵隊に取られて地元に居ないため、母のような女たちが男たち不在の県庁の仕事を補完していたのだろう。



2018.08.13 Monday 21:40
東雲寺あれこれ comments(0)
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2018.09.17 Monday 21:40
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