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<< 「スッタニパータ」を読み始めました main スッタニパータを読む >>
過去現在未来の諸仏、ともに仏となるときは、必ず釈迦牟尼仏となる

 大晦日の早朝、暮れのお墓掃除・お参りに来られたNさんが、境内掃除をしている拙を見つけ、今年一年お世話になりました。坐禅をすると爽やかで、東雲寺での坐禅が私の生活の柱になっています。来年もよろしくお願いしますというようなご挨拶をくださった。坐禅が生活の柱になっているという嬉しいお話をお聞きすることができ、こちらこそ熱心に坐禅会にご参加くださり、有り難うございますとお礼申し上げた。
 自身が気づこうと気づくまいとに関わらず、坐禅修行の中で仏さまや祖師方がご覧になった〈さとり〉の世界を目の当たりにするのである。そして坐禅を終えて日常の生活にもどるときに、爽やかさ清々しさを感じ、自分自身はもとより周囲の人びとやものごとに対しても謙虚に親切に丁寧に接することができるようになる。こうしたときに坐禅の功徳を実感させていただける。本当に有り難いと思う。
 昨年暮れに松岡由香子先生の眼蔵会(道元禅師著『正法眼蔵』の講義。駒澤大学禅研究所の道元禅研究会)に参加した。このときは『正法眼蔵』第二十九「山水経」の巻の後方部分(岩波文庫『正法眼蔵』(二)199〜204頁)だった。松岡先生の永年にわたるご研究の成果をもとに、緻密な検討を加えた資料を使い講義が進められた。
 資料の中で気になるところに朱線を引きながら学ばせていただいた。特に古今の解釈に対する松岡先生の忌憚のない検討考察に深く頷くところがあった。皆さんに紹介したいところがたくさんあるのだが、残念ながら紙幅に限りがあり、そのごく一部を以下に紹介したい。

 

 次は「山に入る」ということをめぐっての説示である。《身心学道》では〈踰城し入山する、出一心入一心なり。山の所入なる思量箇不思量底なり、世の所捨なる非思量なり〉と示されていたことから、〈山は、いりぬるよりこのかた〉というのは、実際に山に入るということも含意しようが、仏道に入ること、つまり修証することが主な意味であろう。また一章二節の〈山中とは世界裏の華開なり〉とは、仏道においてひとりの人のさとりが成就することを意味する。それを考慮すれば〈山に入る〉は、〈ひとのさとりをうる〉ということをも含意している。(中略)
 〈山は、いりぬるよりこのかたは、一人にあふ、一人もなきなり〉とあるが、なぜ山に入ってからは会う一人もない、ということになるのだろう。諸釈のように山に入ればもはや山になっていて、人ではないから、人には会わないというようなことではなかろう。山に入れば、すなわち仏になれば、もはや人としての個人は脱落して、〈過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり〉《即心是仏》といわれて、〈一人〉という個人はなくなるのである。さらに〈あふ〉も、さとりにおいてはいずれにせよ〈山中人は不覚不知なり〉(一章二節)なのである。それは〈自己を諸仏なりと覚知することをもちいず〉《現成公案》ともいわれていた。《谿聲山色》では〈恁麼時の而今は、吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、仏眼も覷不見なり。人慮あに測度せんや〉と冒頭にいわれている。仏道の修証は、自分も他人も覚知しない、分からないのであるから、〈一人にあふ〉ということはありえないのだ。人の知見・認識・覚知の絶えたところ、そこは〈ただ山の活計するのみなり〉である。山の活計は、不覚不知の行仏でもある。


 引用文中の一章二節とは、松岡先生が正法眼蔵の本文を区切り付されたもので、岩波文庫『正法眼蔵』(二)の185頁にある説示だ。
 『正法眼蔵』「行持」下の巻の「祖仏として行持するわれありしなり」については、松岡先生が言及されている「過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり」という道元禅師の説示が鍵となると思う。そして坐禅を中心とする修行の護持・持続が不可欠なのだ。
今年も坐禅修行に精進しましょう。



2020.01.06 Monday 08:44
道元禅師の教え comments(0)
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2020.01.27 Monday 08:44
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