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道元禅師の教え 氏素性、容貌などで差別してはいけない
 道元禅師の主著である『正法眼蔵』九十余巻の中に「礼拝得髄」の巻というお示しがあります。そこには次のような『涅槃経』の経文引用と、それを承けた道元禅師の“差別を許さない”教えが記されています。

 釈迦牟尼仏のいはく、「無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。たゞ般若を尊重するがゆゑに、日々に百千両の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし、天花を散じて供養すべし。日々三時、礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむることなかれ。かくのごとくすれば、菩提の道、かならずところあり。われ発心よりこのかた、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり」。
 しかあれば、若樹若石もとかましとねがひ、若田若里もとかましともとむべし。露柱に問取し、牆壁をしても参究すべし。むかし、野干を師として礼拝聞法する天帝釈あり、大菩薩の称つたはれり、依業の尊卑によらず。

 「釈迦牟尼仏のいはく」以下の鉤括弧の中は経文引用で、仏さまのお説法です。これを意訳すると、無上の〈さとり〉について説き示して下さるお師匠さまに会おうと思うなら、氏素性を云々したり、容貌で判断したりしてはならない。欠点をあげつらい、その行いについてあれこれ考えてはならない。ただただ仏教の智慧、〈さとり〉の世界を尊重するために、日々に百千両の黄金で供養し、天人の食事を差し上げて供養し、天界の花を降らせて供養すべきである。毎日毎日、朝昼晩の三時に礼拝し、敬い尊んで、けっして嫌悪・倦怠の心を起こしてはならない。このように修行する中で、必ず〈さとり〉の世界を目の当たりにするのである。私(お釈迦さま)は求道の志を立ててよりこのかた、このように修行して、今、この上ない〈さとり〉の世界を目の当たりにしている、ということになります。
 以上のような経文引用の後、「しかあれば」以降、道元禅師は自らのお考えを述べておられます。では、そのご提唱の部分も意訳してみましょう。
 そうであるから(我が身を捨てて、初めて聞くことができた仏教の教えを、後の世の人のために樹木や石などに書き記したという仏典の「物語」があるから)、若し樹木や岩石であれば樹木や岩石に、若し田畑や郷里であれば田畑や郷里にも、仏教の教えを説いて下さいと求めるべきです。むきだしの柱にも教えを乞い、垣根や壁にも質問して究め尽くすようにしなさい。
 その昔、野山のキツネをお師匠さまとして礼拝し、仏教の教えを学んだ帝釈天(仏教の守護神)がいました。帝釈天がそのキツネを「大菩薩(大いなる仏道修行者)」と言ったということが伝えられています。
 これは、(きっと過去世において何か悪いことをしたから、その「宿業」によってキツネになったのだろうなどと考え)なぜあなたはキツネなのか、お前はどうして石なのか、なぜ樹木なのかなどと考えてばかりいて、せっかく説かれている正しい仏教の教えを真剣に聞くこともせず、坐禅修行も行わないならば、〈さとり〉の世界を目の当たりにすることはない、ということなのです。
 ところで先に「氏素性」と意訳した「種姓」ですが、実はこれは「生まれ・家柄・家系・カーストなど」を意味する言葉です。この言葉は、仏教の歴史の中で長い間、インドの「ダリット」=「不可触民」として差別・抑圧されて来た人びと(現在のインドにも約1億6千万人いるされています)などについての、差別的な説明の折に繰り返し使われて来ました。日本では被差別部落の人びとなどが引き合いに出され、差別的に解説されて来ました。この経緯を踏まえると、今後、この「種姓」という言葉は前提なしには使用できません。
 しかしご覧のように、道元禅師はこの「種姓(しゅしょう)」すなわち「生まれ・家柄・家系・カーストなど」による差別を明確に否定され、参師聞法や坐禅を中心とする修行を勧めておられます。
 つまり他者の「宿業」についてあれこれ言い、「生まれ」による「身分」のようなものがあって、それが尊いとか賤しいとか言うのは大間違いだというのです。そして「氏素性」「容貌」などで差別するならば、正しい仏教の教えを説いて下さるお師匠さまに出会うことなどできないし、たった一度の「私」の人生をまっとうすることができないとお示し下さっています。
 他ならない「私」自身の一度きりの人生です。
 あなたは、どのように生きたいですか。


2008.07.19 Saturday 19:18
道元禅師の教え comments(0)
道元禅師の教え  おのれ いまだ度らざるさきに  一切衆生をわたさん
 道元禅師の『正法眼蔵』「発菩提心」の巻の中に、イジメや差別をなくすためとても大事だと思われる「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」という教えがあります。
 これは自分が〈さとり〉を得て救われる前に、まず他の人びとが救われるようにするという、菩薩の行(坐禅修行者の行い)を端的に示したものですが、『修証義』第四章「発願利生」にも取り入れられていますので、お経の本などでご覧になって、すでにご存じの方もおられると思います。
 『正法眼蔵』「発菩提心」の巻からいくつか引用し、「自未得度先度他」の教えを改めて学んでみましょう。

 菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに、一切衆生の導師なり。(岩波文庫『正法眼蔵〈四〉』177頁)

 以下に意訳を試みます。〈さとり〉を求めるとともに世の人びとを救済しようという心を起こすというのは、自分が〈さとり〉を得て救われる前に、すべての人びとはじめ生きているあらゆるもの(衆生)を救おうという誓願を立て実践することです。外見がみすぼらしく取るに足らないと思われるような人でも、この自未得度先度他の志を立てて行動する人ならば、もはやその人は、すべての人びとにとって、信頼すべきすぐれた指導者なのです。

 「発心」とは、はじめて「自未得度先度他」の心をおこすなり、これを初発菩提心といふ。この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあふたてまつり、供養したてまつるに、見仏聞法し、さらに菩提心をおこす、霜上加霜なり。(同前 180頁)

 発菩提心とは自未得度先度他の心を起こすことです。これを初菩提心と言います。この心を起こしてから後は、たくさんの仏さまに出会い、供養を捧げてお仕えし、仏さまを目の当たりにして教えをお聞きし、その教えを実践修行します。そしてさらに菩提心を起こすのです。霜の上に霜を加えるように、菩提心に菩提心を重ね、修行の上にさらに修行実践を加えるのです。

 衆生を利益(りやく)すといふは、衆生をして自未得度先度他のこゝろをおこさしむるなり。自未得度先度他の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。たとひほとけになるべき功徳熟して円満すべしといふとも、なほめぐらして衆生の成仏得道に回向するなり。この心、われにあらず、他にあらず、きたるにあらずといへども、この発心よりのち、大地を挙すればみな黄金となり、大海をかけばたちまち甘露となる。(同前 181頁)

 すべての人びとをはじめ生きているあらゆるもの(衆生)に利益と幸福を与えるというのは、その衆生に自未得度先度他の心を起こさせることです。その衆生に菩提心を起こさせるという菩薩の行の中で、自らが〈さとり〉の世界を目の当たりにしても、それでもって自らが仏になろうなどと思ってはなりません。たとえ成仏するだけの福徳をもたらす善行の報いが、自らに十二分に具わっていたとしても、さらにそれを一切衆生が〈さとり〉をひらいて仏になる(成仏)ために振り向けるのです。
 この自未得度先度他の心は、自分のものでなく、他のものでもありません。やって来たものでもないけれども、この菩提心を起こしてから後、この自未得度先度他の心をもって修行を続けるとき、大地に手を触れれば、この大地すべてが黄金となり、大海の水をかきまわせば、海水はたちまち甘露の水となるのです。

 ここで大地が黄金となり大海が甘露の水になるというのは、大地や大海がそのように変化するなどと言っているのではありません。自未得度先度他の心で修行する菩薩(坐禅修行者)が、修行の中で目の当たりにする〈さとり〉の世界が光り輝いている様子や、その〈生〉が深まって、菩薩の生き方としてとても充実している様子を言っているのです。
 この菩薩の行い、自未得度先度他の生き方の中に、他の人を蔑(さげす)み、排除・無視する、差別やイジメなどが入り込む余地などはまったくありません。
 道元禅師は、このような衆生救済の教え、差別やイジメをなくす教えをお示し下さっています。他ならない「私」自身のたった一度の人生ですが、あなたはどのように生きてみたいですか。


2008.07.19 Saturday 19:17
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道元禅師の教え いのちのある限り 好んで愛語すべし
 道元禅師の著述『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の巻の中に〈愛語〉の教えがあります。この菩提薩埵とは、古代インドの言葉「ボーディ・サットヴァ」の音写語で、観音菩薩、地蔵菩薩などと言うときの、この菩薩のことなのですが、実は坐禅を中心とする修行を行い、利他行(りたぎょう)を実践する修行者の意味があります。この巻には、その修行者の菩薩が、人びとを仏道に導き入れ救済する四つの方法が説かれており、その一つが〈愛語〉の教えです。

 愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。慈念衆生(じねんしゅじょう)、猶如赤子(ゆうにょしゃくし)のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし、世々生々にも不退転ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こゝろをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、たゞ能を賞するのみにあらず。

 意訳を試みましょう。
 愛語(親愛の心を起こさせる言語)というのは、あらゆる人びとや動物などの生きものに対して慈しみ愛する心を起こし、心にかけて愛の言葉を口にすることです。すべてにおいて非理非道な荒々しい言葉を使ってはいけません。
 世の中には「いかがですか」と相手の安否を問う礼儀があります。仏道修行の上では「お大事に」という辞去の際の挨拶があり、「ご機嫌いかが」と健康状態や近況などをたずねる作法があります。
 「人びとを慈しみ念うこと、まるで赤ん坊に対してのように(衆生を慈念すること、猶、赤子の如し;法華経)」という思いをもって語る言葉が愛語です。
 徳がある人には誉めて、徳のない人には憐れんで戒めの言葉をかけるべきです。愛語を好むところから、次第に愛語の習慣が増して行きます。そうであれば、日ごろ気づかず見えてこなかった愛語も目の当たりに現れます。この世で命がある限り好んで愛語すべきです。そうであれば、生まれ変わり死に変わりしても、愛語の修行に精進努力して怠ることがないでしょう。怨みに思う敵を降伏させ、君子を和解させるにも、愛語を使用することが根本となるのです。
 面と向かって愛語を聞くと、喜びが顔に表れ心は楽しくなるし、面と向かわず人づてなどの間接的な形で愛語を聞くと、肝に銘じ魂に深く刻み込まれるような思いをするものです。よく知るべきです。愛語は愛心より起こり、愛心は慈悲の心をその本としています。
 一度発せられれば覆すことはできないとされる天子の命令ですが、家臣が愛語をもって天子に翻意を促し、ついにその命令を変えさせたという故事があります。愛語にはこれほどの力があることを学ぶべきです。ただ相手の能力を誉めるだけが愛語ではありません。

 というような意味になります。
 道元禅師は、言葉をたいへん大切にし、仏教の教えの真髄を言葉で言い表し、言い尽くして正しく伝えることに、生涯、心を傾け続けられた方です。
 その道元禅師が、すでに見て来たように「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり」、あるいは「慈念衆生、猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり」などの教えをお示し下さっています。
 「好んで愛語する」ということは、菩薩(利他行を実践する坐禅修行者)にとって、とても大事な愛語の修行を実践するということです。ここにおいては、意識的に差別発言をするなどということは絶対にあり得ないでしょう。それどころか不注意な発言をしたり、他者を傷つけるような言葉を口にしたりするようなことなども、そこに入り込む余地はまったくありません。
 道元禅師は、私たちに〈愛語〉を実践するようお勧め下さっています。
 他ならない「私」自身の一度きりの人生です。
 あなたは、どのように生きたいですか。


2008.07.19 Saturday 19:15
道元禅師の教え comments(0)
お彼岸と東雲寺

  お彼岸の中日、春分の日や秋分の日には、昼と夜の長さがほぼ等しくなり、太陽は真東から昇って真西に沈みます。町田市成瀬の東端に位置し、東方の小高い丘を背にしている東雲寺は、本堂が西向きに建てられた、めずらしいお寺です。
  石畳と石段の参道も本堂正面からまっすぐ西方に伸びています。その先には町田の市街地があり、さらにその向こうには丹沢山地があります。晴れて大気が澄んでいるときなどには富士山も望むことができます。お彼岸のころの夕方には、その丹沢の山並みに沈み行く太陽の光が、参道の桜並木の間から、本堂内陣のご本尊さまの方に向かって、すうっと差して来ます。このとき、夕日照らされた参道が、まるで極楽浄土へと続く「二河白道」のようになります。二河白道とは「西方の極楽浄土に往生する信仰心を、北を貪欲の水の川、南を怒りの火の川にはさまれた細い清らかな道にたとえた語」(「大辞林」)とのことです。
   経典によれば、私たちの住む人間界から西方十万億士の向こうに阿弥陀仏の浄土があるとされています。真西に沈む夕日に浄土〔仏教の理想の世界〕を思い、精進を重ねる、そうした仏道修行を行うことが、そもそもの彼岸会の意味であり、起こりであったと言われています。古文書などがなく詳細不明ですが、390年ほど前、この場所に東雲寺を西向きに建てた当時の人たちには、そうした彼岸や浄土への信仰のような意識が強く働いていたのではないかと思われます。


2008.07.19 Saturday 14:32
東雲寺あれこれ comments(0)
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