Calendar
NewEntry
Profile
Category
Archives
Comment
Search
Link
Favorite
Mobile
Sponsored Links
|
憲法9条を守り 「異形の死」をなくしたい 澤地久枝さんのメッセージ
10月29日午前10時過ぎ、寺の庭掃除を終えて、法要の案内状作りをするためパソコンに向かった。若いころからの悪い癖で「ながら族」なものだから、すぐにテレビのスイッチを入れてしまう。するとノンフィクション作家の澤地久枝さんが映っていた。
澤地さんはこれまでに三度も心臓の手術をしており、今でも心細動がやって来ることが自分で分かるという。AED(自動体外式除細動器)にも何度かお世話になった。AEDを使うと痛いし火傷するなどと体験を語っていた。走ること、泳ぐこと、高地への旅ができないなどの制約はあるが、持病と折り合いをつけながら作家活動などを続けているという。澤地さんが心臓病を抱えながら、さまざまな活動をされて来たことを初めて知った。 番組の最後で、NHK「知るを楽しむ」のシリーズだったことが分かり、後で調べると、この番組は今年8月に放映されたもので、私が見たのは「知るを楽しむ選・人生の歩き方」で、その再々放送だった。 翌日、ほぼ同じ時間帯にパソコンに向かい、テレビのスイッチを入れると、人生の歩き方選・澤地さんのシリーズ全4回の最終回「『異形の死』をなくしたい」が始まるところで、これは集中して見ることにした。 澤地さんの代表作に『滄海よ眠れ ミッドウェー海戦の生と死』(1984〜85年)と『記録 ミッドウェー海戦』(1986年)がある。これらの執筆のため、澤地さんは四回にわたるアメリカ取材を実施。この海戦での戦死者の氏名、生年月日、遺族についての調査を行い、遺族からのアンケート調査などを行った。さらにそのデータ解析のためにコンピュータを導入、それを動かすシステム構築、そのエンジニアの人件費などもあって、借金をしながら最終的に自費五千万円を投じた。 その結果、この海戦において日本側で3057人、アメリカ側で362人、計3419人もの戦死者が出ていたことが確認できたという。 かけがえのない一人びとりの生命なのに、それまで日本側の戦死者数は、3500人、もしくは4000人というような漠然としたものしかなく、きちんと把握されていなかった。日本は「いのち」をおろそかにした国だった。 澤地さんは、「『異形の死』をなくしたい」の中でミッドウェー海戦で父親が戦死、その後のベトナム戦争でその息子が戦死している一家を取り上げている。そしてこうした例はまだあると思うと言う一方で、日本は幸いなことに大戦後から今日までの63年間、公式には一人の戦死者も出していない。日本はまだ救われている、と思うのはそのような意味だとも言っている。 澤地さんは、ベトナム戦争のときに、当時、戦争に反対する「べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」があり、小田実氏がこの運動を立ち上げ、多くの市民に参加を呼びかけていたこと、1945(昭和20)年8月14日、ポツダム宣言受諾を日本が連合国側に伝えた後に行われた「大阪空襲」で非業の死を遂げた人びとの死など、国と国との戦争によって生命を失うことを小田氏は「難死」と名づけていたことを紹介。 人は必ず死ぬ運命にあるが、それぞれの人生の答えに出会えるだけの時間を生きて、病んで看取られていくのが自然死で、10代、20代の若さで予期しないままに生命を失うような無残な死、異形の死の最たるものが戦争死だという。 63年前、日本人みな、あのような戦争はもうたくさんだと腹の底から思った。戦争放棄の憲法が公布されたときにどれほど安心したか。自由・平等・基本的人権の尊重という言葉を見て、どれほど誇りに思ったか、と語る。 憲法を変えようとしている人びとがいるが、もう一度、平和憲法の原点に立ち返り、武器や戦争のない、人が人として生きていくことができる、そうした社会があることを世界に訴え、そのことで尊敬を受ける国になってほしいと願っている。眉間に皺を寄せて、手を振り上げて反対するのではなく、みんなが優雅ににっこりしながら憲法九条を守る。それが「九条の会」の呼びかけ人の一人・澤地久枝さんのイメージだそうである。 【参考図書】『NHK知るを楽しむ 人生の歩き方 2008年8月ー9月』「8月 澤地久枝 声なき声を聞く(文/土屋典子)」日本放送出版協会、683円。 ケアホーム ひかり・神社前で見た 晴れやかな笑顔
東雲寺の本堂正面からまっすぐにのびる参道を下り、一般道に突き当たったところ、杉山神社の斜め前に、社会福祉法人「地の星」のケアホーム「ひかり・神社前」(知的ハンデキャップのある人たちがスタッフの援助によって家庭的な生活を営む施設)が、今年7月にオープン、去る9月27日に開所式、「開設を祝う会」が開催された。この福祉法人の理事長さんが東雲寺の檀徒総代・井上恭一さんで、井上さんは町田市教育委員長をはじめ市文化財保護審議会委員などを歴任され、教育や郷土史研究などのさまざまな分野でご活躍をなさっている方である。
井上さんから、折に触れてこの施設のことなどについてのお話をお聞きしていたし、東雲寺にとってご近所さんとなる施設なので、私も住職として開所式に出席させていただいた。 当日いただいたパンフレットや「地の星」のホームページによると、福祉法人の認可を受けたのは2002年1月のことだそうだが、その16年前の1986(昭和61)年10月には、私設の知的〈障害〉者通所施設ベロニカ苑として活動を始めている。私がお盆やお正月などにお檀家さん廻りをする際、小休憩ポイントのひとつが成瀬と南大谷の境にある「かしの木山自然公園」だが、かつてその公園南側入口付近にもベロニカ苑の作業室があった。 現在、「地の星」は、知的〈障害〉者更生施設(通所)「ベロニカ苑」、知的〈障害〉者授産施設(通所)「風」、ケアホーム(共同生活介護事業所)「ひかり」などの事業を行っている。 開所式・第一部では開会の言葉に次いで理事長挨拶、井上理事長はケアホーム「ひかり・神社前」開所に際して土地を提供し、「地の星」側の希望を容れて建物を新たに建て、それを貸して下さったオーナー・八木昭氏(この方も東雲寺の檀徒)に対し心からのお礼を述べられた。そして「ひかり・神社前」が開所した地・奈良谷戸や成瀬の歴史などを紹介され、この地域の中で施設を利用する人たちが地元の人びととともに生活するので、よろしくお願いしたいとのことだった。 続いて常務理事・安達利恵子氏の経過報告。ベロニカ苑関係者の永年の夢だったケアホーム建設のために研究班を立ち上げた。しかし、自前で施設を建てるだけの財源も無く、井上理事長が候補地やオーナー探しに奔走した。地元不動産業者の仲介で、八木氏に協力をいただくことができ、町田市行政当局や設計施工のミサワホームの担当者などの親身な対応で今日を迎えることができたなどが簡潔に述べられた。 来賓挨拶では、町田市副市長・岩崎治孝氏、市議会副議長・友井和彦氏をはじめ市行政、国会議員、都議会議員などが次々とお祝いの言葉を述べた。続いて来賓紹介の後、八木オーナーへ花束贈呈、そしてケアホームの主人公である利用者の方たちが紹介され、その代表者の挨拶があり、第一部を終えた。 第二部はお茶やジュースで乾杯の後、授産施設「風」で作って販売しているパンやクッキーをいただきながらの懇談。出席者ほぼ全員が一言ずつお祝いや関係者への慰労の言葉などを述べた。その最後の方で利用者の母親や父親がマイクを手に「ケアホーム開所に取り組んだ関係各位に心から感謝したい」「自分たち親の亡き後の我が子が心配だったが、このケアホームの開所によって肩の荷が半分になったような気がしている」「こうした施設が市内をはじめ各地にもっとたくさん作られることを願っている」などと述べた。 知的ハンデキャップのある人たちに対する私たち日本社会の差別意識は根強い。知的〈障害〉者施設の地域の中への受け入れには種々の問題があったものと思う。それらを一つひとつ乗り越えて、開所式を迎えたのだ。式次第が進む中、利用者たちはいつもと違う雰囲気に少々興奮気味で、動き回ったり時に大きな声を上げたりしたが、スタッフや母親たちは終始笑顔で対応していた。その笑顔が何とも晴れやかで輝いて見えた。 成瀬奈良谷戸の住民の一人として、私はこのケアホーム建設の取り組み受け入れを誇らしく思っている。 赤とんぼ じっとしたまま 明日どうする 風天
10月15日から、朝日新聞夕刊の一面下段でニッポン人脈記「おーい 寅さん」が連載(全13回)されている。寅さんとは映画『男はつらいよ』で渥美清が演じたフーテンの寅こと車寅次郎のことだ。この寅さん映画に出演した女優、俳優、スタッフ、撮影地などで作品に関わった人びとを朝日の記者・小泉信一氏が興味深い切り口で紹介している。写真は八重樫信之氏。
第一話では、リリー役で四度マドンナを演じた浅丘ルリ子が取り上げられている。二話では吉永小百合、いしだあゆみ。いしだは、完成した『寅次郎あじさいの恋』をひとり渋谷の映画館に見に行った。丹後半島伊根の舟屋二階で寝ている寅さんのところへ階段をきしませ上って行く。「寅さん、もう寝たの・・・」というシーンで、いしだ自身がブワーッと泣いてしまったそうだ。役の上でのこととは言え、寅さんの心をもてあそんだ自分が恥ずかしくなったのだという。 三話は妹さくら役の倍賞千恵子、テレビ版でのさくら役を務めた永山藍子。四話、都はるみと主題歌の作詞・作曲をした星野哲郎・山本直純。以降、おばちゃん役の三崎千恵子、テキヤ仲間「カラスの常」を演じた小沢昭一、おいちゃん役の森川信、ポンシュウの関敬六、タコ社長の太宰久雄などなど。 夕刊を楽しみに待つ日々である。なお、インターネットの「朝日シネマ倶楽部」というサイトで写真映像はないが記事が取り上げられていて読むことができる。 1969(昭和44)年8月27日に『男はつらいよ』第一作が公開され、今年で40周年。渥美清の13回忌でもある。東京・東銀座の東劇では8月9日から9月5日まで、寅さんシリーズを毎日二本立てで上映していた。私は、その間の8月22日の『寅次郎夕焼け小焼け』(マドンナ・太地喜和子)と『噂の寅次郎』(大原麗子)、9月3日の『寅次郎恋愛塾』(樋口可南子)と『寅次郎の縁談』(松坂慶子)の四作品をしばらくぶりで映画館の大きなスクリーン、大勢の寅さんファンとともに観た。 今年になって「渥美清」を書名に含んだ本を二冊購入した。ひとつは『渥美清の肘突き』(福田陽一郎著、岩波書店、2008年5月刊)、もう一冊は『風天 渥美清のうた』(森 英介著、大空出版、2008年7月刊)である。 「肘突き」の方は、脚本家・演出家の福田陽一郎氏が草創期のテレビ界などで縦横無尽に活躍した自伝で、著者が関わって来たテレビドラマや演劇、ミュージカル、映画作品におけるエピソード集で、その一部に渥美清との出会いや一緒に観劇した折の〈肘突き〉の思い出(293頁)などが記されていた。これが岩波書店刊ということから考えると、昭和の芸能界裏面史というようなものとしての価値があるのだろうとは思う。が、「渥美清」という名前を書名に付すほどに渥美清に重きをおいたものではないように思えて、寅さんファンとして、私はだまされたような気がした。 『風天 渥美清のうた』の方は、毎晩、床について、その夜に開いたところから読んで楽しんでいる。一句一句とその背景などが記されており、なかなか味わい深い。風天は渥美清の俳号だ。 渥美清没後に、朝日新聞社の週刊誌「アエラ」の句会で氏が詠んだ句が公表され、渥美清が俳句を作っていたことが分かって、当時、注目を集めた。その後、この本の著者・森英介氏が渥美の交友関係などをたどって渥美の句を探し歩き、四つの句会に参加していたことをつきとめ、これまでに221句を収集したという。 森氏が、風天の俳句を探す旅の中で異色の人物に出会ったとして、キリスト教の牧師・関田寛雄先生との面談を記している。関田先生は川崎戸手教会牧師、青山学院大学教授などをおつとめになっていた方で、日本の戦争責任について取り組まれている尊敬すべき誠実な宗教者のおひとりである。また、日曜礼拝などで「男はつらいよ」を取り上げつつ教えを説く、大の寅さんファンでもある。たまたま開いた145頁に関田先生のことを見つけ、小躍りするような気持ちで読んだ。関田先生による風天の句の解説がとても温かい。
1/1PAGES
|