Calendar
NewEntry
Profile
Category
Archives
Comment
Search
Link
Favorite
Mobile
Sponsored Links
|
道元禅師の教えが分かりやすく一般的に書かれた入門書は?
被差別民衆が担って来た芸能や民俗などのルポルタージュや〈差別〉をテーマにした小説などを書いている作家・ルポライターの知人から届いた年賀状の余白に「道元さんの言葉がわかりやすく、一般的に書かれた入門書の書名を一冊教えてもらえませんか。きっと喜ぶ人がまわりに一人います」とあった。この「喜ぶ人がいる」という言葉が頭の隅にひっかかっていて、どんな本を紹介したらいいか、数日間、その時々に考えた。
インターネットで「道元/入門」というキーワードを使って検索すると、22万5000件ヒットした。また、「道元入門」という言葉で書籍の検索を行うと20数冊の類書が出て来た。そしてそれらには、書名の中に「入門」とあっても非常に専門的なものがあり、また内容的にいかがなものかと思われるようなものもあった。いかがなものかというのは、〈本覚思想(ほんがくしそう)〉によって道元禅師の教えを理解しようとしているものなどのことである。「覚(さとり)」を中心に理解しようとする考え方と、「修行」を大切にする道元禅師の教えとはまったく異なる。〈本覚思想〉にもとづく理解によって書かれたものなどを読めば、道元禅師に近づくどころか、かえって遠ざかってしまうと思われるので、そういう類の書籍をお薦めするわけにはいかない。 また、マンガという文化・表現手段を否定するわけではないが、「マンガ道元入門」「マンガ正法眼蔵入門」などのようなもので、道元禅師の思想や行動にどこまで迫れるのか、はなはだ疑問に思う。坐禅修行し続ける〈行仏(ぎょうぶつ)〉として、時々刻々精進努力し続けるという生き方・教えと、何だか難しそうだから分かりやすいマンガなどで何とかしたい、理解できないだろうかと考えるような「水準」の生き方とでは、ベクトルの方向がだいぶ違うのではないかと思うのである。 入門書はたくさんあるが、帯(おび)に短し襷(たすき)に長しで、道元禅師の教えが分かりやすく一般的に書かれた入門書を一冊選び出し、推薦するということが非常に難しいということが分かった。 私は、できれば『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』、あるいは『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』などの原典を自身で手に取って、パラパラと頁を繰る程度でも良いから道元禅師の言葉を自分の眼で直に読んでほしいと思っている。 また、前の記事で述べたように「分かりやすい」ということには落とし穴があって、その時の自分に引き寄せてものごとを「理解」し、それで分かったつもりになる可能性もあるので、とても危険な面があるのだ。それよりは多少回り道であっても原典を手に、自分の眼で読み、自分の頭で一生懸命に考え、理解しようと努力すべきなのである。なぜなら、理解する、分かるということは、自分自身が変わることだからだ。 しかし、そうは言っても、何か一冊くらいあるだろうと言われそうなので、ちょうど定期購読し、手許にあった月刊誌『大法輪』二月号「特集・これでわかる〈道元〉」をもう一冊書店から取り寄せ、「分かりやすいというのは危険な面がある」という手紙を添えて送り届けることにした。 「これでわかる〈道元〉」という特集のタイトルにはいささか戸惑いを覚えるが、それでも「道元の生涯」佐藤秀孝(駒澤大学教授)、「道元の教えと思想」中尾良信(花園大学教授)、「道元の名言」角田泰隆(駒澤大学教授)、「道元禅師著作ガイド」尾崎正善(曹洞宗総合研究センター客員研究員)、「禅宗史の中の道元」吉田道興(愛知学院大学教授)、「道元を取り巻く人々」安藤嘉則(駒澤女子大学教授)などの執筆陣とそれぞれ担当した文章のタイトルを見ると、曹洞宗の仕事で種々ご迷惑をおかけした仏教学者の方が多く、それぞれの仕事ぶりもいくらかは存じ上げているので、まずお薦めしても問題ないだろうと思った。執筆者の中には人権・差別問題について、私と意見を異にする人もいるのだが、この特集が複数の書き手による道元禅師へのアプローチなので、さまざまな見方、異なる表現の仕方などに少し注意を払いつつ、道元禅師の教えを理解する手がかりにしてもらえればよいと思ったのである。また、この月刊誌には各出版社の道元禅師関係書籍の広告も多数あって、これも参考になるだろうと思った。 分かることは自分が変わること
「分かる」ということは、自分自身が「変わる」ことだという。仏教の教えに適った坐禅を中心とする修行とか人権啓発などの場合、分かるということは、理解したことをそのようにすること、そのようにできることであり、そのように自身が変わることなのである。
このような意味から言えば、「分かりやすい」ということは非常に危険なのである。その仏教の教えや人権に関することがらをそのときの自分に引き寄せて、自分に都合のよいように理解し、分かったつもりになってしまう場合があるからだ。だがそれは難しいことについて、難しいままにしておくということではない。難しいこと、理解しにくいことがらについては、特に言葉を尽くして、正確に、できるだけ分かりやすく伝えなければならない。そういう伝え方はたいへん重要であって、必要なことだと思う。 08年暮れの12月25日(木)午前10時から開催させていただいた第5回「仏典講座『般若心経』」の折に、『般若心経』の解説書の類で「分かりやすい本」と思われるようなものは危ないというようなことを申し上げた。これは著者の考え方や執筆姿勢、出版意図などもあるだろうが、読者に分かったつもりにさせてしまうような書き方、読者受けを狙った書きぶりのものがあるのだが、そういう類の書籍を読むと、かえって『般若心経』の教えを正しく理解することが困難になり、仏教の教えに遵って日常の中で精進努力することができず、結果的に修行実践が妨げられてしまう。だから危険だと言ったのだ。 『般若心経』の勉強会では、仏教の「縁起」の理法、「空」の教えを学び、その教えを正しく理解することによって、それまでの自分自身を積極的に変えながら、自分の方から『般若心経』に少しずつ近づくよう、学び続け、前進して行こうという呼びかけをさせていただいた。 その日の夕方、東日本部落解放研究所の事務局がある台東区の東京解放会館で開催された、人権啓発映画に関する座談会に出席させていただいた。12月13日に行われた研究・学習会(映画監督・大熊照夫氏の部落差別問題に関するビデオ映像3作品を観て、大熊氏の講演を聴いた後に質疑応答、討論を行った)を承けての座談会である。 出席者は、大熊監督はじめ井桁碧(筑波学院大学)、門馬幸夫(駿河台大学)、吉田勉(さいたま市教育委員会)、藤沢靖介(東日本部落解放研究所事務局長)の各氏と私。私がかつて曹洞宗の啓発ビデオ制作に深く関わっていたため、座談会のメンバーの一人として声をかけていただいたのである。この座談会の模様は、今年3月ころ発行の東日本部落解放研究所の研究誌『明日を拓く』に掲載される予定。 座談会では、まず大熊監督の人権啓発ビデオ、特に部落差別問題を取り上げた作品を制作するに至った経緯、マンネリ化していたこれまでの啓発映画 例えば、差別問題が起き、周囲には無理解な人びとばかり、そこに人権・差別問題に精通した人物が登場、皆を説得してハッピーエンドで終わるというような映像作品への批判などが述べられた。その後、啓発映画とは何かとか、何をどのように描き、誰をどのように啓発するのか、差別問題は差別者側の問題だが、差別者側を映像化するのは非常に困難だというようなことなどについて話し合われた。そうした中で映像は「分かりやすい」とされているが、それは違うのではないかという指摘があり、一度しか視聴しない啓発映画で人は変わることができるのかなどについて意見交換がなされた。 さらに井桁先生から「自分はもの書きだが、書き手である自分が変わらないようなものは書かない」という発言があり、監督自身は取材や撮影などの作品制作を通して変わったのかというような問いが発せられた。大熊監督が「変わった」と応じた。制作に関わった私も変わった。 分かるということは、自分自身が変わることであり、何かを作り出すことも自身が変わることなのだ。今年も仏教の「縁起」の理法、「空」の教えなどを学び、変わり続けようと思っている。
1/1PAGES
|