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春彼岸会に思うー梵鐘が兵器にされた時代ー
 昨年暮れのことだったが、曹洞宗の信徒向け月刊誌『禅の友』編集部から、3月の「彼岸」特集号に原稿を書いてほしいという依頼があった。中野重哉出版部長のご紹介とのこと。中野師とは部長就任前からの古い付き合いで、これまでも何度か師が編集している『光明』誌等への執筆勧奨があり、拙作をお届けしたことがあった。
 編集部から与えられたテーマ「彼岸」と、曹洞宗がここ10数年ほど掲げているスローガン「人権・平和・環境」とを結ぶ〈何か〉をいろいろと考えたが、ぴったりとした題材を思いつかなかった。さてどうしたものかと思っていたとき、たまたま東雲寺前住職・柚木能宣師が出版した『東雲寺史』で調べものをする機会があった。パラパラとページを繰っていると、《梵鐘供出令下る》という見出しで「二百星霜、成瀬の里に朝に龍谷に吠え、暮には東雲に響くその妙音も今日限り、惜別の念禁じ得ず、遂に山門を離る。時に昭和十八年三月十八日であった」という一文を眼にした。インターネットで1943(昭和18)年の春分の日を調べ、その三日前の3月18日が彼岸の入りの日だったことが分かった。
 『禅の友』3月号には、この「梵鐘供出」について書くことに決めた。その原稿の主旨は以下のようなものである。

 今から66年前の3月18日、春彼岸の入りの日、東雲寺の梵鐘が、檀家の方々が見守る中、鐘楼から降ろされて牛車の荷台に積まれ原町田駅に運ばれた。さらに貨車に積まれて川崎の工場に引き取られていった。それは戦時下の「金属類回収令」によって、寺院の梵鐘や仏具などの供出を命じられてのことだった。
 供出というのは法律によって食糧や物資などを政府が民間に一定価格で半強制的に売り渡させることである。それも戦争末期には代金も支払われなくなったという。
 長期にわたる戦争を続ける中で武器生産に必要な金属資源が不足し、各家庭の金の指輪はじめ鍋釜、鉄製火鉢などの金属類が集められた。さらにそれでも足りずに寺院の梵鐘、仏具なども回収対象となった。全国の寺院から梵鐘、金属製の燭台や香炉などが集められ鋳潰されて、戦車や大砲、鉄砲、弾丸などに作り変えられた。アジア・太平洋戦争中に、全国寺院の九割以上が梵鐘を失ったと言われている。
 東雲寺の梵鐘は江戸中期、延享2年(1745)に武州多摩郡成瀬村の人びとのご寄付によって鋳造されたもので、梵鐘には当時の村人たち144人の姓名が彫り込まれていた。
 梵鐘は法要儀式のときや「時の鐘」として時刻を知らせるときなどに鳴らされ、その鐘の音を聴く人すべてに〈さとり〉をひらかせる功徳があるとされている。鋳造以来、供出までの約200年間、地元成瀬村の人びとをはじめ多くの人たちが仏教の教えに適った正しい生活を送り、〈さとり〉をひらいて真の幸福を得るように、そして世の中が平和であるように祈りを込めて撞かれ続けて来た梵鐘である。
 その梵鐘を、いくら戦時下とは言え、人間を殺傷する兵器、不殺生戒を犯す道具に作り変えるため、お彼岸の入りの日、すなわち〈仏教週間〉が始まる日に送り出すことになってしまったという〈歴史的事実〉を前に、人間の思考をマヒさせてしまう、戦争というものの底知れぬ恐ろしさに戦慄を覚える。
 後日談だが、東雲寺の梵鐘は、たまたま鋳潰される寸前に敗戦を迎え、兵庫県内の道ばたに転がっていた。これを見た方が、「武州多摩郡成瀬村東雲寺」という銘を手がかりに手紙を下さり、それがきっかけで関係者のご理解ご協力によって、1947(昭和22)年4月、四年ぶりに東雲寺に無事帰って来た。梵鐘の帰還を祝う「再懸慶讃法要」や「記念演芸会」が盛大に行われた等々というような主旨の原稿だった。

 4月末に修行予定の晋山結制法要の案内状に同封し、この『禅の友』3月号を全檀信徒へ郵送した。東雲寺の梵鐘にまつわる話を紹介しつつ、できるだけ多くの人に「非戦」の思いをお伝えするためである。


2009.03.20 Friday 16:06
東雲寺あれこれ comments(1)
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