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『般若心経』の「自分訳」を創り 仏教の教えを実践する
第一期仏典講座(全11回、最終回は『般若心経』の写経会)は昨年8月から今年8月まで、月一回、第四週の平日午前中の開催だったので、聴講を希望されながらお勤めなどの都合で参加できない方が10数名おられた。そこで第二期講座は、原則として毎月第四日曜日の午後に開催(都合により10月は第三日曜の10月18日開催)させていただいている。現在、30数名の方とご一緒に『般若心経』を通して仏教の教えを学んでいる。
第二期講座では、できれば第一期講座の内容をさらに充実させ、深化、進化させたいと思っている。興味のある方、お時間のある方は、ぜひ一度足を運んでいただきたいと思う。 第一期仏典講座開催中の一年間、以前から所持していた20数冊の『般若心経』関係書、解説書などに加えて、さらに一冊、もう一冊と、書店に行くたびに関係書籍を購入したため蔵書が増え続けた。『般若心経』関係の書籍はいろいろな人によって執筆され、さまざまなところから出版され続けているので、この本で最後にするというわけにはいかないように思う。ぜひとも眼を通す必要があると思えば、『般若心経』関係書籍が増え続けることになる。そういう次第で、現在、机の周辺や書棚にある40冊ほどの『般若心経』関係書籍を参照しながら、レジュメや資料を作成し、それに基づいてお話をさせていただいている。 ところでこのようにして複数の『般若心経』の解説書を並行して読み進めるという作業を通して思うことは、解説書によって『般若心経』の教えを学び理解しようという場合、どのような書籍を選ぶかがたいへん大きなウエートを占める問題で、その「選択」が意外に難しいかも知れないということである。結論的な言い方をすれば、いくつか良質の解説書等を読み比べながら学ぶという読み方、学び方しかないように思う。 さらにそうした読み比べながら学ぶという先に、私たち自身が坐禅を中心とする修行生活の中で、自らの言葉で『般若心経』の「自分訳」を創り、仏教の教えを日常の具体的な行動の上に現して行くということがある。 それも一度きりではなく、日々新たな「自分訳『般若心経』」というものを創り続け、行動し続けなければいけないのである。 西有穆山(にしあり・ぼくざん)師は、「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)摩訶般若波羅蜜啓迪(まかはんにゃはらみつ・けいてき)」(榑林晧堂編『正法眼蔵啓迪』大法輪閣、1965年)の中で次のように言っておられる。 皆はただ『心経』を読むばかりだから利益がうすい。『心経』は必ず行ぜにゃならぬ。いまは観自在菩薩は深般若を行ずるのである。「行立ちて解亡ず」、一切法は耳に聞き、心に得たならばこれを四時昼夜に行ぜにゃならぬ。この行持あるによって法が全く我がものになるのだ。行仏威儀というのは、我れあって仏威儀を行ずるでない、行が直に仏である、行仏となるのである。「深般若というは観法で、この観法によって悟りを開けば、もう用事はすんだゆえ臥ておる」というでない。行深般若の時は行が直きに般若である。行という菩薩になるのである。この行がよい。みんな法が手に入らぬは行が立たぬからだ。もし行菩薩になりきって、この行程から見る時は一切みな菩薩行に非ざるはない。 『般若心経』を暗誦できる、できないなどというレベルの問題ではない。『般若心経』を口先だけで唱えていてはいけないのだ。必ず私たちは『般若心経』の教えを修行実践しなければいけないとおっしゃる。 『般若心経』の教えを学び得心したならば、六波羅蜜のうちの布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定(ぜんじょう)の五波羅蜜をどれも欠くことなく日々実践する。その修行実践によってのみ、般若波羅蜜・仏教の智慧が完成されるのである。日常生活の中で利他行・布施行の究極「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」の教えを実践し続ける中でこそ、『般若心経』の〈空〉の教えと私とがひとつになることができるという啓迪(みちびき)だ。
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