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町田宗夫老師と高松祖堂大和尚
11月25日が私の実父、福島県二本松市大隣寺前住職・高松祖堂大和尚の命日で、昨年今年とお逮夜(忌日の前夜)法要に参列、命日に墓参した。父の遷化(せんげ=僧侶が亡くなること)は、前回の記事で取り上げた、町田宗夫師による第三回世界宗教者平和会議差別発言事件(1979年9月)の三年後、1982(昭和57)年のことだった。
町田師と父とは駒澤大学(東京都世田谷区)の同級生で、二人とも応援団の副団長、団長は青森県三戸の法光寺前住職・楢山大典師(故人)だったというような話を、生前に何度か父から聞かされていた。 父は、最晩年の1981(昭和56)年6月の曹洞宗宗議会議員選挙で無競争当選。それから亡くなるまでのわずか一年五ヵ月間ほどだったが、精力的に議員活動を行っていた。この選挙に立候補するよう何度も父に勧めたのも町田師だったという話を誰かから聞いた気がする。 元団長の楢山師も先輩議員として活躍していたし、同級生で同期当選の議員も数人いたようだった。当時65歳前後だったはずの父たちだが、東京港区芝2丁目の曹洞宗の本部事務所である宗務庁で開催される宗議会の折などは、久しぶりの先輩、同級生、後輩らとの再会で、気分は学生時代にもどっていたのではないかと思う。 この頃に父が私にこう言った。「宗議会議員に当選して、やりたいことがいくつかある。まずは町田君の問題の早期解決だ」と。 父の話ぶりからすると、部落解放同盟はじめ人権確立を願う人びとから曹洞宗が抗議され、糾弾を受けているけれども、それは言葉尻を捕らえたものか誤解にもとづく抗議だというような、当時の宗門内の大方の意見、風聞のようなものにもとづく発言のように思われた。それですぐに私は父のそのような思いとは異なる意見を言った。 当時、私は部落差別問題について読みかじり聞きかじりの俄(にわか)勉強のような状態だった。ただ1981(昭和56)年1月の糾弾会の席上、「差別戒名」や「差別図書」などの指摘があって、私も「差別戒名」の現地調査・事実確認の取り組みに参加し、実際に「差別戒名」の刻まれた墓石を目の当たりにしていた。こうしたことから、解放同盟の問いかけは誤解や言葉尻云々というような次元のものではない、曹洞宗教団にとって非常に深刻な、根源的なところに関わる問題と思われる。だから早期解決と言っても、それは簡単ではない、というようなことを言った。 そして宗務庁はじめ教団内外の取り組みの推移を注視し、宗議会議員として協力してほしい、というようなことを伝えた。父は、この若い息子の意見を聞き入れてくれたようだった。 曹洞宗における人権・差別問題への取り組みだが、当初、教団内、特に宗務庁内には、部落差別問題などについてきちんと学び、差別撤廃の取り組みをした経験のあるような人材はほとんどいなかった。そのため数人の若いスタッフが中心となって、教団の取り組みを進めざるを得なかった。その中で一番若かったのが私だった。 最近、ある宴席で二十数年ぶりに駒澤大学の松本史朗教授にお会いした。初めは共通の恩人知人などを話題にしていたが、しばらくして彼が「あなたのイメージは青筋を立ててという感じだったが、ずいぶん温厚な雰囲気になられましたねぇ」と言った。たぶんそうだったに違いない。私はいつも相手に何とか分かってほしいと思って話をし、議論をし、取り組みを続けていた。 先月24日、亡父の逮夜法要を終えての夕食時に、十日ほど前に町田宗夫師が遷化された話をした。すると母が、町田師が福島県内で行われた駒澤の同級会の折に、初めて大隣寺に立ち寄ったときのことや、父の死後にわざわざ山口県から訪ねて来て下さり、父のお墓の周りを巡りながら、「おぅおぅ高松よぉ。なんでこんな若くして死んでしまったんだぁ」などと語りかけていたことを話してくれた。この町田師に対しても、私は当時たぶん「青筋を立てながら」話をしていたはずだ。 ※「差別戒名」とは、被差別民にのみ付与された、「一般」の檀信徒と比較して「不当に貶(おとし)められた戒名」のことで、「革尼(かくに)」「僕男(ぼくなん)」「畜門(ちくもん)」などの文字が使われた。 ※「差別図書」とは、「差別戒名」の付け方、「差別儀礼」の仕方などが記されていた。 人権週間に思う 追悼・町田宗夫師
12月4日から10日まで「人権週間」である。
これは1948(昭和23)年12月10日、国連の第三回総会で「世界人権宣言」が採択されたことを記念して定められた、人権尊重思想の普及と高揚のための一週間である。 人権・差別問題で、私の仏教者としての生き方のターニング・ポイントになった出来事がある。第三回世界宗教者平和会議差別発言事件だ。 1979(昭和54)年8月、アメリカのプリンストンで開催された、世界各国の宗教者による平和や人権について話し合う国際会議において、インドの「不可触民」や日本の「部落民」への差別について討議していたとき、全日本仏教会理事長・曹洞宗宗務総長 (いずれも当時) が、再三にわたり「日本の部落問題というのは、今はない」「部落差別ということを理由に、何か騒ごうとしている人たちがいるだけ」などと発言、日本からの他の参加者もこれに拍手を送り、その結果、会議の『報告書』から部落差別問題に言及した字句を削除させてしまった事件である。 事件当時、私は曹洞宗教団の本部事務所である曹洞宗宗務庁の職員だった。当初、私たちは宗教業界紙や一般紙の関西版などで「差別事件」として報道されても、何かやっかいなことが起こったらしい程度の認識だった。それが後に糾弾会・学習の場に出席、さらに糾弾の中で指摘された「差別戒名」の現地調査に参加するなどして学習を深めるにつれ、部落差別問題の深刻さを知り、その差別の加害者側に僧侶や寺院が立って来たことに気づかされた。さらに衆生救済を説く仏教者が、被差別部落の人びとや「障害」者、女性、ハンセン病者などを差別してきたという事実を目の当たりにして、仏教とは何か、根本から考え直さざるを得なかった。 この差別発言事件の反省の中から1981(昭和56)年6月、仏教、キリスト教、神道などの、多くの宗教教団が宗教の壁を越えて協力・参加して、「『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議」を結成、今日も部落差別をはじめさまざまな差別問題の解決のために活動している。 去る11月15日、山口県防府市禅昌寺住職・町田宗夫師が遷化(せんげ=僧侶が亡くなること)された。享年93歳だった。師は件の「差別発言」を行ったその人である。町田師は事件後の糾弾会・学習の場などを通して部落差別問題について改めて学び、五年後の1984(昭和59)年8月、ケニヤ・ナイロビで開催された第四回世界宗教者平和会議に出席。前回の「発言」を取消し、全世界に向け謝罪した。曹洞宗、全日本仏教会も「発言」について総括、謝罪した。実は私もこの会議に曹洞宗代表団の随員として参加させていただいた。 このナイロビでの会議に向けた準備の中で、何度も町田師にお会いした。町田師は1916(大正5)年生まれで、私の実父(福島県大隣寺前住職・故人)と駒澤大学で同級生だったこともあって、それまでいろいろと目を掛けていただいていた。その息子のような者にあれこれ口出しされ、謝罪文についても何やかやと指摘されるのだから、町田師はさぞかし不愉快だったろうと思う。しかし、師はいつも淡々とされていて、思うところを率直に話して下さり、私のような若輩の助言(?)にも謙虚に耳を傾けて下さった。 ナイロビでの会議の後、町田師は全国各地の各種集会などの人権研修に招かれ、講演活動をされていた。しかし、それからさらに十年ほど経ったころ、「従軍慰安婦」問題など戦争中のことに関連して、師の歴史認識に問題があるのではないかという指摘があり、「ご高齢」を理由に私からお願いして講演活動を休止いただいた。 こうしたことから、仏教の教え、道元禅師の教えを学びつつ、社会的弱者とされる人びとの訴えに耳を傾け、人権・差別問題について考えなければならないと思うようになったのである。現在、坐禅会で『正法眼蔵』を少しずつ読み進めながら、差別問題や非戦・平和について取り上げているのは、こうした経緯からである。もし、あの差別発言事件に出会うことがなければ、このような生き方をしていたかどうか、はなはだ心許ない。 ※「差別戒名」とは、被差別民にのみ付与された、「一般」の檀信徒と比較して「不当に貶(おとし)められた戒名」のことで、「革尼(かくに)」「僕男(ぼくなん)」「畜門(ちくもん)」などの文字が使われた。
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