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語り継ぐ戦争体験 「嗚呼 満蒙開拓団」
  お彼岸のある日、天寿をまっとうされて永眠された女性のご生涯や思い出などについて、そのご遺族からお聞きする機会があった。
 故人は中国大連の生まれだそうで、縁あって軍人の妻となり、七人の子宝に恵まれた。夫の転勤で「外地」各地を転々としたが、敗戦前に「引き上げ」の指令が出で、家族全員が無事「内地」に帰って来ることができた。戦後は、物資が何もなかったのでたいへん苦労したなどということをお聞きした。
 私が、引き上げではたいへんなご苦労をされ、大勢の方が亡くなられたということを聞いているが、さぞかしたいへんだったのでしょうねと言うと、軍人の家族は優先して早く引き上げることができた。もし、引き上げの時に死んでいれば、今ここに私たちはいない……というお応えだった。
 確かにその通りだ。生還したからこそ、故人は天寿をまっとうされ、七人の子どもたちをはじめお孫さんや曾孫さんたちという大勢のご子孫がおられるのだ。故人やそのご子孫に何か問題があるというわけではない。けれども私は、何か釈然としないものを感じた。

 というのは、今年1月26日の夕刻、町田市民フォーラムで開催された『嗚呼 満蒙開拓団』(羽田澄子監督)の自主上映会に参加し、敗戦直後、満蒙開拓団の方たちの引き上げ時に起こった数々の悲劇に関する多くの「証言」を視聴しており、それらを思い出したからだった。なお、この上映会では同様のテーマで制作されたアニメーション作品『蒼い記憶―満蒙開拓と少年たち―』も同時上映された。

◇ 証言   何十台と続く軍のトラックが、「乗せてってくれ」とすがりつく開拓民の手を振り払い、置き去りにして行った。
◇ 証言   一家で満州にわたり目的地に着いたのが一九四五(昭和20)年5月下旬で、間もなく敗戦、日本から届いた荷物のヒモをほどくこともなく、避難・逃亡の生活を余儀なくされ、父母や妹を亡くした。
◇ 証言  敗戦により満州の奥地から多くの開拓民が中国東北地区の方正に避難 して来た。その方正で数千人もの人が亡くなった(後に多数の遺骨が発見され、ある残留婦人の願い出により、中国方正県政府によって日本人公墓が作られる)等など。

 満蒙開拓団とは、1931(昭和6)年の「満州事変」以後、当時の日本政府の国策によって中国東北部(旧満州)、内蒙古に入植させられた移民のことで、貧しい農家の次男三男などが地主、自作農になれるという宣伝につられて自ら参加した者もあったというが、多くは国の20年間に「5百万人・百万戸移住計画」遂行のために、町村単位に移民募集のノルマが課せられ、「お国のため」として送り込まれた者も多かった。
 敗戦時には約27万人になっていた開拓民のうち、敗戦後の混乱の中、8万数千人が死亡、多くの「中国残留孤児・残留婦人」を作り出してしまった。
 かつて曹洞宗の「差別戒名」改正の取り組みの中で、長野県北部の被差別部落の墓地をお参りし、調査した折に、物故者の名前の傍らに満蒙開拓団として大陸に渡り、彼の地で亡くなった旨の文字が刻まれた墓石がいくつかあった。
 満蒙開拓団が入植した土地は、実は現地の中国人や朝鮮人が開墾した土地を日本が強制収容で取り上げ、開拓移民に再配分したものだった。このため開拓移民は現地の人びとからたいへん恨まれており、1945(昭和20)年8月9日のソ連参戦以降、力関係が逆転する中で、現地の人たちによる襲撃、略奪などの対象となってしまい、多くの悲劇を生むことになった。
 NHK学園受講者作品『私の生きた昭和〈ろ〉―がんばった、そして未来へ。』(NHK学園、2010年2月18日)、朝日新聞の読者投稿欄「声」に寄せられた手紙をまとめた『戦争体験―朝日新聞への手紙』(朝日新聞出版、2010年2月28日発行)を相次いで手にした。戦争を繰り返させないために、戦争の悲惨さ愚かさについて、勇気をもって語り継ぐ努力をされている方たちに、心からの敬意を表したい。


※「差別戒名」とは、被差別民にのみ付与された、「一般」の檀信徒と比較して「不当に貶(おとし)められた戒名」のことで、「革尼」「僕男」「畜門」などの文字が使われた。曹洞宗は1981年から差別撤廃のために「差別戒名」改正の取り組みを始め、当該墓石の合同供養塔への合祀、過去帳の書き改め、追善法要などを行っている。


2010.03.30 Tuesday 22:42
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冤罪(えんざい)を無くす 取り調べの可視化
  2月14日(日)夜遅く、NHKのETV特集「裁判員へ  元死刑囚・免田栄(めんだ・さかえ)の旅  」を見た。
 免田栄さん(84歳)は、冤罪(えんざい)、無実の罪(強盗殺人罪)で「死刑判決」を受け、34年6ヵ月もの間、獄中にあって、六度目の再審請求で、ようやく再審裁判が行われ「無罪判決」(1983年7月)を勝ち取った方である。
 1949(昭和24)年の逮捕当時、そもそも免田さんは別件逮捕によって自由を奪われたのだが、免田さんには犯行時間に明らかにアリバイがあったにもかかわらず、警察が証人に虚偽の証言をするよう誘導してアリバイ崩しを行い、さらに三日間眠らせないなどの拷問や脅迫によって自白を強要したのである。その上、警察は凶器や犯行時の衣服などの証拠品とされるものを廃棄するなど、一般常識では信じられないようなことを次々と行い、とにかく真実を覆い隠して、でっち上げによって免田さんを犯人に仕立て上げたのだった。
 番組の中で免田さんは、冤罪であることを訴えても訴えても、その声が届かず、いつ死刑が執行されるか分からない中で、獄中生活を送っていたときの恐怖を語った。これは想像を絶する。
 現在、免田さんは、獄中から冤罪を訴えている人たち、再審を求めている人たちを訪ね歩き、冤罪の問題や再審について考えている元裁判官や弁護士などと面談するなど、再審開始請求支援の活動をしている。
 ご記憶のことと思うが、昨年5月の新たなDNA鑑定によって冤罪が明らかになった「足利事件」をはじめ、戦後の混乱期などではなく、ごく近年でも、受刑者が刑期を終えて出獄した後に真犯人が犯行を自供し冤罪だったことが分かった「富山連続婦女暴行事件」、脅迫や精神的拷問などででっち上げ、鹿児島県の山間部の小集落全体で選挙違反があったとした「志布志事件」などの冤罪事件が起きている。
 今日現在、冤罪事件が起こる可能性がまったくないなどとは言えない。それは冤罪事件がなぜこのように繰り返されてしまうのか、冤罪事件を作ってしまう原因は何なのか、警察や検察、裁判の在り方に問題はないのかなどについて、現時点で十分な検証、検討が行われていないからである。
 免田さんは、昨年5月に導入された裁判員制度について、現在までは被告が罪を認めており、裁判員は量刑について判断をすればよかった事案ばかりだったが、今後、無罪を訴える被告の裁判の場合、裁判員はどのように対処できるのか不安があると番組の中で指摘していた。
 取り調べの全過程の録画が行われるようになれば、取り調べの様子を事後に検証することができるから、裁判員もより適確に判断することができるようになるはずである。
 2月17日の報道によると、千葉景子法務大臣が全国の検察幹部を法務省に招集した会合で、「足利事件」などの冤罪事案に触れ、取り調べ過程の録音・録画などの可視化実現に向けた検討をするので、実務者側の協力を要請するという訓示を行ったとのことである。
 さらにまた、無実を訴え再審を求める人びとの前に立ちはだかる再審開始の扉がなかなか開かれないという問題もあると思う。
 2月4日、戦時下最大の言論弾圧事件として有名な冤罪「横浜事件」について、刑事補償法による請求が認められる判決が出された。これは法(治安維持法)の廃止や大赦などの免訴となる理由がなければ無罪判決を受けたと認められる場合に補償金を支払うという法律による判決である。一次、二次再審請求は「棄却」。三次、四次の再審請求では「免訴」という門前払いをされていた事件について、裁判員制度が導入されるなどの時代の流れの中で、良識ある裁判官が関わって出された実質「無罪」判決だった。
 取り調べの可視化に関わる法整備を急ぐべきだ。そしてもうひとつ、警察、検察、裁判官などの人材を養成する過程で、さらなる遵法精神の涵養や人権意識を高めるための教育が必要だと思う。

※免訴=有罪か無罪かの判断をせずに訴訟を打ち切る判決。すでに確定判決を経たとき、刑が廃止されたとき、大赦があったとき、時効が完成したときに言い渡される。


2010.03.30 Tuesday 22:30
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