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東雲寺ご開山明岩宗珠大和尚さま修復後のお姿です
東雲寺ご開山・明岩宗珠大和尚御木造を修復
東雲寺は1723(享保8)年と1878(明治11)年3月16日の二度、火災に遭って全焼しており、現在の本堂は1910(明治43)年に落慶したものだ。このため東雲寺には白鳳誕生仏や梵鐘、参道石段横のお地蔵さまなどは別として、お仏像や古文書類など、江戸時代に遡るような古い時代のものはない、と思っていた。
ところがこの度、祖師像修復を依頼した仏具店での分解洗浄の過程で、ご開山像の胎内から木札二枚が出て来て、そこに「元禄八年」という制作年などが書かれていたのである。 仏像などの胎内に納められた文書を「胎内文書」というが、お像の造立や修理の際に、お像内に小仏像や仏舎利、経典などを納めるほか、お像の造立趣旨、願主や結縁者の氏名などを記した願文が納められることがある。それがこの度、東雲寺のご開山さま・明岩宗珠大和尚さまのお像の中から出て来たのだ。 東雲寺の本堂北側に位牌堂があり、その奥に開山堂がある。開山堂にはご開山さまと曹洞宗の高祖道元禅師、太祖瑩山禅師の三体の祖師像、歴代住職のお位牌などをお祀りしている。祖師像の背に「明治四十四年八月 當山十八代延成新添(または、延成彩色)」とあることから、約百年前に作られ、お迎えしたお祖師さま方のお像だと分かっていた。ご開山さまもたぶん同時期のものだろうと考えていた。 百年間という時の流れによって、三体の祖師像の状態は悪く、たいへん傷んでおり、年末のすす払い大掃除のときや折々の行事前のお掃除などのときに、お像のホコリを払いながら、心を痛めていた。特に道元禅師のお顔の右頬には大きな剥落があり、ご開山さまのお衣やお袈裟の彩色は剥げ落ちてボロボロの状態だった。 昨年のお盆に相模原市緑区根小屋(旧津久井町根小屋)の功雲寺様に伺ったときに、功雲寺のお仏像の修復がたいへんよくでき、費用も他社と比べて安価だったという話を聞いた。住職の敦岡祖雄(つるおか そゆう)師に、その仏具店をご紹介願い、東雲寺のご開山、高祖、太祖の御尊像を見てもらって、見積りをお願いした。数日後に見積書が届けられ、その後、檀徒総代会に諮り、世話人会に経緯を説明するなどして、2010年の1月18日、祖師方の御尊像三体の修復を依頼した。 そして去る5月29日(土)午前、修復なった祖師像三体が東雲寺にお帰りになられた。 お像の胴体部分とは別にお顔や手はそれぞれ丁寧に梱包されており、東雲寺の位牌堂で組み立てられた。そのときにご開山さまの胎内を直接間近に見ることができ、そこに古紙に包まれた木札二枚があった。開けて見てみると、 一枚目表には 元禄八乙亥歳十一月朔日 明巖和尚之尊像新造 武州多摩郡成瀬村東雲寺第 その裏面には 六世朝庵隠市叟代 佛師者江城大佛師大貮 法橋宗慶刻彫之 とあった。 二枚目には 文化元年癸子年七月吉日 奉再興明巖和尚尊像 當山代拾五世曇秀叟代 改名智巌 とあり、裏面に 御影施主同國瀬谷村 平本善左衛門為無覚了関 霜岩妙清菩提也乃至施者 現世安穏後生善處子孫安全 とあった。なお「曇秀」のところには訂正の線二本が引かれ傍らに「ヒ」という印が四つ付してあった。 「元禄八年」は1695年、「文化元年」は1804年である。「明治四十四年」は1911年、そして今年は2010年。ほぼ百年ごとにご開山像を修復をして来たようである。 今回の胎内文書発見で注目すべき点が、さらに三つある。 ひとつは二度の火災の中、ご開山像が難を逃れて来たということである。 二つ目は東雲寺15世住職の改名する前の名が「曇秀」だったというのだが、「東雲寺曇宗(曇秀)」という方は1800(寛政12)年に永平寺から版行された『正法眼蔵』「法華転法華」巻の施主として名を連ねている人だということである。 さらにもう一点は、東雲寺のお檀家で横浜市瀬谷区上瀬谷の平本家とのつながりが、200年以上前の文化年間からすでにあったということである。江戸時代の寺請制度がある中で、瀬谷のお檀家さんが、成瀬の寺のご開山像の「再興」の施主となっていたことに大きな驚きを覚えた。 6月15日の総代・新旧世話人会の折にご開山さま・高祖道元禅師さま・太祖瑩山禅師さまの開眼供養を修行した。 胎内文書の木札二枚、右側が二枚の表、左側が二枚の裏。
ご開山さまの頭部と胎内文書の木札
東雲寺のご開山さま像などを修復
ご開山さまの胎内から元禄八年造立、文化元年修復の木札が見つかりました。
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