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明治大学リバティアカデミーの皆さん来山
6月29日午後2時30分から4時30分、明治大学名誉教授の圭室文雄先生(たまむろ・ふみお。近世宗教史)に引率された明治大学リバティアカデミーの皆さん46名が東雲寺をお訪ねくださいました。名古屋から宮代雅敏さん(圭室先生の明治大学ゼミOB)も飛び入り参加、お持ちくださった名古屋の銘菓を皆さんに召し上がっていただきました。
圭室先生には30数年前から住職が公私にわたりご指導いただいておりますが、特に一昨年からは毎年8、9、10月に東雲寺文化講座を実施、その講師をお務めいただいております。 明治大学リバティアカデミーとは、明治大学で行っている公開講座の名称で、それは総数二百数十講座あるそうですが、その中の一つ、圭室先生の全国各地の名刹についての八回の講義と二回のフィールドワークでお寺巡りなどをされている講座(半年間で10講座)を受講されている皆さんでした。 圭室先生のお人柄と講義内容がうけて、開講案内が発表されるとすぐに満員になってしまう、人気講座だそうです(宮代氏談)。リピーターの方が多く、12年連続受講の方もおられるとか。都内はもちろん埼玉県や静岡県からご参加の方もおられ、ご高齢の方もおられるようでしたが、皆さん健脚で、かつ知的興味を常にお持ちの方がたのようで、「お若い‼」という印象でした。 JR成瀬駅に午後2時集合。駅から恩田川まで北上、川沿いに遊歩道を歩かれ、成瀬高校のところに出て、東雲寺まで歩いてこられたそうです。 東雲寺の本堂で、住職から東雲寺に伝えられている「白鳳誕生仏」のこと。 次に、やはり東雲寺に寄託安置されている室町時代作「慈願寺本尊地蔵菩薩」のこと。 さらに延享二年鋳造の東雲寺の梵鐘のこと。 幕末の黒船来航時に、ぺりーから米国大統領の「国書」を受け取った浦賀奉行・井戸岩見守弘道の妻が眠る井戸夫妻のお墓のこと。 そして太平洋戦争末期の学童疎開のことや東雲寺本堂が再建された折、約100年前の襖が屏風に表具し直されたことなどをお話しました。 その後、本堂内の屏風、開山堂内のお地蔵さま、奪衣婆、位牌堂玄関の岩見守夫人の甕棺などををご覧いただき、境内の白鳳誕生仏堂や井戸岩見守夫妻の墓、梵鐘、疎開児童祈念碑などをご覧いただきました。 フィールドワーク修了後に解散。 夕方5時過ぎから、成瀬駅前の「味のれん 多幸」さんで、時間に余裕のある方たち十数名と圭室先生を囲んで反省会。8時少し前に成瀬駅でお見送りしました。 お疲れさまでした。 『小田原史談』連載の西岡逾明小伝を読む
東雲寺本堂「室中(脇間)」の襖(ふすま。現在は屏風に表具し直している)に『七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)』を揮毫した西岡逾明について調べている過程で、神奈川県小田原市の小田原史談会(以下、史談会)の季刊誌『小田原史談』に直江博子氏の「西岡逾明 ある文人司法官の生涯」という論考があることを知った。5月20日、史談会に手紙を差し上げ、その論考を拝読したいとお願いをしたところ、6月8日に史談会会長・平倉正氏から丁寧なお手紙を添えて当該論考が連載された『小田原史談』(212〜5、7、8号。2008、9年)の六冊をお送りいただいた。
当該論考の筆者・直江博子氏は西岡逾明の六代後のご子孫とのことである。直江氏によると逾明は「ゆうめい」と読むそうだ。逾明は、佐賀藩の典医・西岡春益の長子で、1835(天保6)生まれ、1912(大正元)年殁。以下に当該論考によって逾明の略歴を記す。 逾明が生を享けた佐賀藩は教育熱心な藩で、藩士の子弟全員を6、7歳で藩校弘道館に就学させ、25、6歳で卒業、さらに国内外へ遊学もさせた。弘道館から江藤新平、大隈重信などといった多くの逸材を輩出している。 逾明もこの藩校で教育を受け、万延・文久年間に父親とともに京・大阪に遊学した。このころは、幕府側(新撰組など)・反幕勢力が京の都などで争っていた時期で、医師の逾明は負傷者であれば誰彼かまわず治療し助けた。そのため幕府役人から疑いをかけられ、佐賀藩に帰る。 明治元年、羽州出張中(柚木注・戊辰戦争に従軍か?)に軍監、木戸孝允の推薦で酒田県の権知事(現・山形県酒田市)、さらに東京府参事、東京府権大参事となる。 次いで逾明は、左院の議官(立法府の官選議員)となって、日本の法律制度について議論。ヨーロッパの先進国の議事・立法機関等についての調査を命ぜられ、明治5年1月27日に横浜港出港、3月19日にフランスのパリに到着。パリで統計学・経済学者のモーリス・ブロック博士に師事。 11月16日、右大臣・岩倉具視を特命全権大使とする岩倉遣外使節団がパリに到着。翌年2月17日まで逾明らと合流。この間、使節団副使・木戸孝允と逾明とは20回も会っている(木戸日記)。 逾明が記したブロック博士の講義ノート数冊を木戸が読み、木戸、岩倉がブロック博士と相次いで面会。民選議員や民選裁判官などへの「急速な開化には注意を」という助言を受ける。このことによって明治政府の方針が修正される。 明治6年9月5日に帰国。明治8年、判事に任ぜられ、大審院(現在の最高裁判所)判事をつとめ、転勤先の宮城、長崎、函館では各控訴院(現在の高等裁判所)の院長を務め、従三位勲三等に叙せられる。明治26年11月に病のため休職。 晩年は、自分の娘や孫娘が小田原にいたからか、小田原に別宅を持ち、風光、文墨を友とし、朋友・家人・親戚と親しく交わった。小田原市久野の東泉院住職・富仙秀岳と交流、禅を談じた。逾明の客好き、話好きは父親譲りだったという。書を書き、漢詩を詠み、書物に囲まれ過ごした。能楽にも造詣が深かった。 「神奈川県立第二中学校」と、板に書いたものが県立第二中学校(現・小田原高校)の正門に掲げられていたが、それは雄渾で立派な字だった。 明治44年12月26日午前零時半、第二中学校物置から出火、本校舎一棟、付属建物三棟などを焼失。この冬は特に寒かった。その中で校舎再建などのために奔走した逾明は、とうとう病床に伏すこととなり、二中の火事から約一年後、大正元年12月23日に逝去した。享年78歳。 教育に関しては最後まで情熱を傾け生き抜いた。逾明には信念があった。人間にとって教育こそがまさに大切なもので、教育を受けていないものは、法の網をかいくぐっても恥であるとは思わない。だから教育の力を当てにするのでなければ、日本の隆盛を望むべくもないというものだ。 小田原市早川の海蔵寺に逾明夫妻の墓がある。正面に「判事従三位勲二等西岡逾明・配喜勢子墓」、左側に略歴を記した約八百字の碑文がある。 紫陽花の季節です
鐘楼堂のそばに咲く紫陽花 露の新治師匠の「お江戸ツアー」を堪能(^0^)
露の新治師匠が6月11日から20日、東京上野広小路「鈴本演芸場」6月中席昼の部(主任・柳家さん喬師匠)に出演中。 この間、柳家さん喬師匠とともに東京都内各所、横浜のさまざまな高座をつとめておられます。 6月12日夜は横浜にぎわい座で「さん喬一門会」。新治師匠がゲスト。新治師匠の「狼講釈」、さん喬師匠の「八五郎出世」を堪能。6月15日昼は鈴本演芸場で新治師匠の「たこ坊主」、さん喬師匠の「船徳」の熱演に腹をかかえて笑わせていただきました。 さん喬師匠の名人芸に酔わされ、新治師匠のはつらつとした姿を見て、なんともまぶしいような高座でした。 今年の成瀬名物東雲寺寄席は11月4日(日)午後1時30分開演「さん喬・新治二人会」の予定です。 三歳の子どもが言い得ても、八十歳の老翁も行い得ない
東雲寺本堂の中央に内陣(ないじん)と呼ばれる板の間があって、そこに須弥壇(しゅみだん)が据えられ、その上段奥にご本尊さまがお祀りされている。この内陣の左右の室中(しっちゅう=脇間)の襖(ふすま)を四曲一双の屏風に表具し直していただいた。 この挿話における白居易の「言うことができる」とは「分かっている」という意味で言ったものと思う。しかし、道林さまは「分かる」ということは「そのように行うことができる」ということなのだと言い、だから「諸悪莫作、衆善奉行」が仏教の大意なのだと応じたのである。
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