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9月30日の朝、参道掃除をしているときに撮影
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 朝日に輝く曼珠沙華(彼岸花)が参道わきに咲いていました。
 9月30日の夜に台風17号が関東地方を横切るそうですが、このときはそんな気配はまったくなく、おだやかな初秋の朝でした。


2012.09.30 Sunday 09:45
東雲寺あれこれ comments(0)
彼岸花が一週間遅れで満開
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   今年は境内の草木の開花時期が、水仙、梅から始まって、桜、ツツジ、凌霄花、百日紅、彼岸花など、すべて遅れ遅れでした。
 
  しかし、それでも自然界というのは、咲くべき時には咲くのですから、まったくもってスゴイと思います。私たちも自然界の一員なのですが、おのれのなすべき時を知って実践しているか?となると、はなはだおぼつかないわけで、恥ずかしい限りです。


2012.09.29 Saturday 14:44
東雲寺あれこれ comments(0)
永平寺に行ってまいりました
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  毎年9月23日〜29日、福井県の大本山永平寺では御征忌法要(永平寺を開かれた道元禅師さまのお命日が9月29日ですので、23日から一週間の報恩供養の法要)が営まれます。

 法友の埼玉県所沢市林の松林寺ご住職・森道輝師が25日早朝の法要で導師を務められるということで、神奈川県相模原市緑区根小屋の功雲寺ご住職・敦岡祖雄師と一緒に法要に参列随喜させていただき、道元禅師さまの真前にお焼香し、読経してまいりました。


2012.09.25 Tuesday 16:15
住職雑感 comments(0)
圭室文雄先生にご講演いただきました
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 明治大学名誉教授・圭室文雄先生をお招きして、2012年度第2回東雲寺文化講座を開催。今回の演題は「寒川神社と現世利益信仰」。
 現在では「八方除け」で知られる寒川神社ですが、圭室先生がさまざまな史料、資料を使って、寒川神社の江戸時代以前のようす、明治維新以降のこと、そして現代についてお話くださいました。


  相模国の一の宮として古くから崇敬されて来た寒川神社だが、鎌倉時代には別当寺院として真言宗薬王寺の名が記録に出て来て、神仏習合だったことが分かる。また、16世紀半ばに北条氏綱が「社頭再興」しているが、これは氏綱が建築費の全額を出したということを意味するわけでなく、北条氏の支配する領地内で寄附を募ってもよいという許可を与えたということである。

 安永9年(1780)の社領分配並びに祭礼分担表によると、役職で見ると神主1人、社人25人、供僧寺4カ寺、別当寺1カ寺であり、身分で言うと農民26人、僧侶5人である。
 寒川神社の総石高は100石であり、薬王寺分が13.33石、神主が4.98石、社人や供僧寺が0.64石〜6.26石である。一人の食べ分が1.8石とされ、親や子どもを養うには7.2石ないといけない。ということで分かるように、神社だけで食べて行ける人は少なかった。
 寛政2年(1790)の「寒川神社境内絵図間数書之覚書」や『寒川町史』などによると、本社7.5坪(15畳)、幣殿3.75坪(7畳半)、拝殿11.18坪(土間の22畳の広さ)であり、一方、薬王寺本堂54坪(108畳)、同庫裡24.5坪(49畳)、供僧寺の神照寺本堂54坪、同庫裡15坪、西善院本堂45坪、同庫裡18坪などである。
 こうして見てくると、江戸時代までは、寒川神社は神仏習合で仏教寺院、僧侶が維持管理していたと言える。

 明治時代に入って、神仏分離がなされ、神社から仏教色がすべて排除された。別当寺院や供僧寺の僧侶は還俗させられ、一部は神職になった人たちもいた。

 神社が伊勢神宮を別格として、その下に官幣大社、同中社、同小社、別格官幣社などの神社のランク付けがなされた。いずれも天皇家とのつながりによるものだった。日本国の都を東京に移したため、近畿圏の人々の不満を少しでも慰撫するため、官幣大社の多くが京都や奈良、大阪などの神社」だった。

 そのさらに下に国幣大社、同中社、同小社がランク付けされ、寒川神社はこの国幣中社のひとつである。国幣中社に列せられた二年後の明治6年(1873)、寒川神社の氏子の範囲が地元の寒川町から藤沢市、茅ヶ崎市の近隣地区にまで広げられ4,860戸となった。寒川町の人々は仏教寺院の檀家から神葬祭に強制的に変えられた。

 寒川神社の祭礼も江戸時代と明治以降とでは変化している。明治政府の布達によって明治初期から始められた祭礼は、天皇家関係の行事のものがほとんどだ。

 寒川神社の宮司や権宮司、禰宜は鹿児島県などの下級武士が就任した。元別当寺院薬王寺の僧侶で還俗し神職の禰宜になった人は明治6年10月に解任され、権禰宜になっていた寒川神社の元神主だった人や元供僧寺神照寺の僧で還俗し神職になっていた人などは明治10年12月に解任されている。

 明治6〜7年の『寒川神社日記』を見てみると、雨乞い、船中安全、安産祈願、養蚕祈祷などが一部あるが、ほとんどが病気平癒祈祷だった。つまり明治政府による強い働きかけがあったが、信仰内容は江戸時代と変わらなかったと言える。

 天皇を中心とする国家作りにため、学区制が敷かれ、小学生に対し「紀元節の歌」「神嘗祭の歌」などを通して、臣民化教育をしていった。

 八方除けは戦前からあり、戦時中は戦勝祈願になるが、再び八方除けが盛んになるのは近年になってと言える。

 


2012.09.24 Monday 11:47
東雲寺あれこれ comments(0)
東雲寺文化講座を開催しました
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 9月23日(日)15時〜16時40分、東京都町田市地域は強い雨。
 足もとの悪い中でしたが、遠近各地から44名の方が参加され、熱心に受講しておられました。
 名古屋から圭室文雄先生のゼミOBの宮代さんも参加されました。


2012.09.24 Monday 11:42
東雲寺あれこれ comments(0)
日本仏教学会学術大会に行って来ました
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   日本佛教学会2012年度学術大会を記念して、「大逆事件」に関連した資料展示があるという、花園大学教授・中野良信先生のお誘いがあり、9月13日に京都まで足を伸ばした。
  「無我愛」運動の伊藤証信をめぐる明治期の知識人相互の交流などで興味深い資料が多数展示されていた。
  伊藤証信へ宛てた内山愚童はじめ与謝野晶子、河上肇、石川三四郎、暁烏敏、堺利彦、島地大等、倉田百三、武者小路実篤、市川白弦などのハガキや書簡が展示されていた。
  新宮市浄泉寺の住職だった高木顕明が与謝野晶子を敬慕しており、大石誠之助が甥の西村伊作(文化学院創設者)に描かせた晶子像の軸を顕明に贈っていた。こうした相互の交流について、改めて考えさせられた。
  成石勘三郎が獄中で大学ノート三冊に写経した『法華経』も田辺市祐川寺から借用、展示されていた。
  また、愚童が処刑されるときに立ち会ったという教誨師の沼波政憲のハガキもあった。  
  これら展示資料の五分の四以上が、近代仏教研究者の柏木隆法氏の所蔵資料だった。
  花園大学出身者である柏木氏が中尾先生の依頼要請を受け入れ、この度の展示会になったもので、文字通り貴重な記念展観だった。
  柏木先生の愛弟子であるマックス中川剛氏が会場で迎えてくださり、諸資料について説明をしてくださった。
  学術大会の休憩時間に中尾先生からも資料展示についての説明やこの記念展観に至るまでのご苦労などをお聴きすることができた。

  午後、学術大会の発表を聴く。石井清純先生の「初期曹洞宗における仏弟子の自覚と羅漢供養」、中尾良信先生の「道元における出家受戒」、吉田道興先生「道元禅師における仏弟子観」などの発表を拝聴した。


2012.09.13 Thursday 18:05
人権・平和・環境 comments(0)
福島県宗務所長さんから原発事故についての訴え
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 吉岡棟憲所長の講演で印象に残った言葉を記します。(文責、柚木)

 毎週金曜日に首相官邸前でデモが行われている。小さなデモが口コミやツイッターの呼びかけで徐々に大きくなり、10数万人の集会も開催されている。
 その場に坊さんの姿がない。仏教の坊さんたちは、「いのち」の問題を軽視し、政治家や経済人などの「電力不足によって経済が落ち込む」という心配に同意、加担するのか? 宗教者は原発再稼動反対、原発廃止の問題に関心をもつべきで、持たなければならない。

 原発事故によって、一瞬にして、福島県民が美しい山河を奪われ、ふるさとを離れざるを得なくなり、時に差別にさらされるようになった。公の場で「福島の人と結婚するな。後遺症や子どもに障害が出るかも知れない」などという差別講演をするような人物も出ている。
 こうした状況下にも関わらず、東京電力は一度も謝罪していない。
 さらにゴルフ場が倒産に追い込まれ、東京電力に補償を求める裁判を起こした。すると原発内のセシウムなどは東電のものだが、流れ出たものは無主物(持ち主がいない?)だから補償しなくてよいというような判決が出されて、驚くとともに怒りを感じている。

 東京電力の福島原発は、福島県民が使用する電気を作っていたわけではない。関東地方、東京方面に電力を供給していたのだ。

 放射線量の数値や除染の見通し、復旧復興の計画などについて、福島県民は疑心暗鬼になっており、国や東京電力の発表を信用できなくなっている。

 除染というが、洗い流し、表土を削って地中に埋めるもので、これは移染にすぎない。

 毎日、放射線量を量っていると、思わぬ所にホット・スポットが出て来る。
 これから何年、何十年、この苦しみがなくなることはない。
 原発の再稼動は中止すべきだ。
 福島を忘れないでほしい。福島に来て現地で話を聞いてほしい。


2012.09.06 Thursday 19:37
人権・平和・環境 comments(0)
石巻市立大川小学校で慰霊法要
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 研修会2日目、9月6日午前9時、石巻市の北上川河口近くにある海蔵庵のご住職やお檀家さんから被災当時の話をお聞きしました。
 
 海蔵庵自体は外海に面していない内海にあったこと、岩盤の上にあったことなどにより、あまり被害がなかったものの、檀家さんの居住地域は津波で大きな被害を受け、現在、仮設住宅や民間アパートなどで避難生活をしている。そこで河口から20キロ上流の地点に仮設の別院を建て、檀信徒の法要を行っている。
 海蔵庵のある地域は、若い人たちが高齢者を援助しながら避難したため、93歳のお婆さんが避難中に車ごと流され亡くなったほか全員無事に避難できた。しかし、河口から四キロもさかのぼった河岸の街中にあった大川小学校に通っていた子どもたち74人が犠牲になった。
 大川小学校で娘さんや息子さんを亡くされた二組のご両親と93歳の母親を亡くした漁師の方が海蔵庵別院に来てくださり、法要に参列焼香くださった。
 ご両親の心情を思うと、私は普段のように読経し続けることができなかった。
 その後、お父さんお母さん方が、子どもたちを捜索していたときの気持ちや住職から受けたアドバイスで一定の心の整理ができた話などしてくださった。
 その後、大川小学校を訪れ、読経供養。さらに海蔵庵ご住職から地域で問題となっていることや復旧・復興に向けての動きの現況などのご説明をいただいた。

 また、海蔵庵別院から大川小学校へ移動するバスの中で、ご住職から地元の歴史や地理などについての説明があった。その中で特に驚いたのは、現在の北上川の相当に上流のところに江戸時代の北上川河口があり、そこに伊達藩の船が係留されていたというお話だった。明治以降に堤防を作り、両側に田畑を作り、街を作っていったということだった。そして今回の大津波が襲った地域というのが、江戸時代に作られた地図の海の部分とそっくり重なるというお話だった。

 海蔵庵さんでは、来たる秋彼岸中の9月24日午後1時に大川地区慰霊法要を行うとのことだった。この法要には、地元寺院住職はじめ、ご住職の個人的に縁のある東京、神奈川、山形、福島の僧侶も参列、支援協力するとのことである。

 最後に、海蔵庵住職から、近い将来において東海地震、首都直下地震などがあると言われている。ぜひ、防災、減災の対策、避難者対応の備蓄などを早急に行うようにという助言があった。


2012.09.06 Thursday 13:49
人権・平和・環境 comments(0)
津波で本堂が流された西光寺さまで
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 南三陸町歌津地区の西光寺さまをお訪ねしました。
 かつて本堂があった境内や仮本堂で、津波が襲われたときの様子や避難生活、復旧の取り組みなどについてご住職からお聞きしました。

 大きな地震があり、津波の心配はしたが、海から800メートルの西光寺には来ないと思っていた。避難訓練のときの避難場所が境内の下の駐車場になっている所だった。
 「駐車場」にいた人たちと一緒に西側の山にある墓地に逃げた。そのときお寺の東側の住宅の屋根に他の家がのし上がるような形で津波が押し寄せた。
 津波がお寺の軒下まで押し寄せ、お寺の本堂がふっと浮いた。その後、本堂が二度回って、さあっと山際を擦るように流されていった。気仙沼線の線路の土手の手前で本堂が壊れて止まった。
 その後、瓦礫の中からご本尊さま、須弥壇、丸柱などを取り出し、さらに手伝いに来てくれた若い人たちが、木魚や


2012.09.06 Thursday 06:09
人権・平和・環境 comments(0)
南三陸町に研修で訪れました
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 曹洞宗東京都宗務所人権擁護推進委員会現地研修会が、9月5日、6日の一泊二日で、東日本大震災の被災地である宮城県本吉郡南三陸町や石巻市、福島県福島市において開催されました。

 まず、最初に南三陸町志津川地区を訪ね、地元の震災ガイド(語り部ボランティア)の案内で地区内をフィールドワーク。
 南三陸町職員で、最後まで防災無線で町民に避難を呼び掛けていた遠藤未希さん(当時24歳)ら42名の町職員が津波の犠牲になった同町防災庁舎跡地で読経供養をしました。たまたま立ち寄ったらしい方たちも法要に参列くださいました。

 庁舎の周辺の瓦礫などはきれいに片付けられているものの、かつて街を形作っていた建物の土台のコンクリートがそっくりそのまま残されており、そのあちこちに雑草が生い茂っているといった状況でした。
 地区の数カ所に瓦礫が集積された場所があり、瓦礫処理はまだ四分の一程度との説明がありました。ひときわ目をひいたのが津波で潮水に漬かった乗用車などの山でした。
 この庁舎付近は震災によって地盤沈下しており、ちょうど大潮の時期でしたので、夕方にはこのあたりも海水に覆われてしまうとのことでした。
 少し高台の方に仮設で漁協の事務所が設置されていたり、仮設の商店街があったりしましたが、復興はまだまだこれからという感じがしました。

 


2012.09.06 Thursday 06:03
人権・平和・環境 comments(0)
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