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水仙が咲きました
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今朝、雨上がりの中で、水仙が一輪、二輪咲き始めているのを見つけました。


2013.12.27 Friday 17:40
東雲寺あれこれ comments(0)
正法眼蔵随聞記を読む
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 12月22日(日)15時から東雲寺仏教講座「『正法眼蔵随聞記』を読む」の第17回講座、今年最後の講座を開催しました。
 今回は
『正法眼蔵随聞記』第三巻、第九章段「学道の人、世間の人に知者もの知りとしられては無用なり」の後半部分から第十一章段の前半部分を読みました。


 以下の引用は、第九章段の後半部分。


(前略)伝ヘ聞ク故高野の空阿弥陀仏は、元は顕密の碩悳なりき。遁世の後、念仏の門に入ツて後、真言師ありて来ツて密宗の法門を問ヒけるに、彼ノ人答ヘテ云ク、「皆忘レをはりぬ。一事もおぼえず。」とて答へられざりけるなり。
 これらこそ道心の手本となるべけれ。などか少々おぼえでも有るべき。しかあれども、無用なる事をば云はざりけるなり。一向念仏の日はさこそ有ルべけれと覚ユルなり。今の学者もこの心有ルべし。直饒元教家の才学等有リとも、皆わすれたらん、よき事なり。況ンや今学する事、努々(ゆめゆめ)有ルべからず。宗門の語録等、なほ真実参学の道者はみるべからず。そノ余は是レを知ルベシ。

 

  故高野の空阿弥陀仏  今は亡き、高野山の空阿弥陀仏という僧侶。1142〜1224年、平安後期から鎌倉前期の僧。明遍という真言宗の僧侶だったが、法然門下になって空阿弥陀仏と改名した。少納言藤原通憲の子。1159(平治元)年、18歳の時平治の乱にあい、父は斬首され、自身も越後国に配流となる。赦免された後、東大寺で三論宗を学んだ。50歳を過ぎてから遁世して高野山に入山し、蓮花三昧院を開創した。法然門下となり専修念仏に帰依した時期については不明。
    碩悳  徳の高い人。学徳ともにすぐれた僧にいうことが多い。
    遁世  俗世の汚濁を逃れて仏門に入ること。俗世間との関係をたつこと。俗世間を逃れて隠れ住むこと。
    真言師  真言宗の僧侶。
    などか少々おぼえでも有るべき  どうして何一つ覚えていないことがあろうか。
    一向念仏の日は  ひたすらに念仏を称える修行生活に入ったからには。
    努々有ルべからず  けっしてすべきではない。
    宗門の語録等  禅宗の祖師方の言行録など。


 こうした道元禅師の教えについて、数日前に講座の参加者の方から次のようなメールをいただいていた。
 道元禅師ご自身は幼少の時期から『春秋左氏伝』『毛詩』などを学び、出家して比叡山で修学、建仁寺で禅を学び、さらに中国にわたって指導者にさまざまな質問をしながら参学している。にも関わらず、弟子たちには祖師方の語録など読む必要がない、ましてやそのほかの世間一般の学問などは必要ないなどと言うのは自己矛盾ではないか。
 というものだった。


 確かに表面的にはそのように思えるかも知れない。
 しかし、『正法眼蔵随聞記』に記録されている道元禅師の教えは、嘉禎年間1235年〜38年の4年間ものである。当時、道元禅師のもとに集まって指導を受けていた人びとは、比叡山や日本達磨宗などで修学していた人たちが中心で、自分たちが学んで来た知識や枠組を手がかりに、道元禅師の教えを理解しようとしていたに違いない。それは例えば色眼鏡でものを見るようなもので、道元禅師の教えを素直に聞き入れ、理解することができずに違った色に見えていただろう。そういうわけで、道元禅師の「修証一等」「只管打坐」の教えを会得することが非常に難しかったのではないだろうか。
 だから、まず虚心に道元禅師の指導を受け入れ、真剣に坐禅修行をしようという説法を繰り返していたのではないだろうか、というようなことを、今回の講座の中で申し上げた。

 明眼の皆々さま、乞うご批判、ご叱正のほどを。


 


2013.12.23 Monday 14:49
道元禅師の教え comments(0)
瀬谷リーグの少年野球チームが来山
 今年10月ころから度々お電話をいただいて連絡調整していた、横浜市瀬谷区の瀬谷リーグの少年野球チーム(小学校4年生、3年生)の11人と監督やコーチ陣、さらにお母さんや兄弟姉妹14人、計25人が、12月22日の東雲寺坐禅会第4日曜日「子ども坐禅会」(子どもさんや保護者の方、大人の初心者の方対象)に参加してくださいました。
 この坐禅会が今年最後の開催で、明年は1月5日が最初の坐禅会。
 本日12月22日が「冬至」。一番夜の時間が長い日なため、皆さん真っ暗な中、早起きして東雲寺に来てくださいました。6時40分くらいに明るくなり始め、坐禅会が始まる7時ころにようやく「朝」という感じでした。
 少年野球チームの指導をされている方にお話を聴くと「このチームは落ち着きがない。また、忘れ物が多いので、坐禅をしてみようということにした」とのこと。

 坐禅をすることで自分を見直す、相対化、客観化する中で、自分を自分に取り戻す。
 その自分は有限な命を生きている存在だし、それぞれ限られた時間と能力の中で生きている。
 隣りにいる友だち、チームメイトも同様に限られたいのちを生きている存在。お父さんお母さんも同様。
 だから、今、ここで、大切にすべきことに心を傾けて生きる。
 かけがえのない友だちやチームの仲間を大切にし、大事にするならば、うかうかできないし、忘れ物などすることができないなどなどをお話し、坐禅作法を実際に坐りながら確認、ご一緒に坐禅修行をさせていただきました。


2013.12.22 Sunday 09:46
住職雑感 comments(0)
人権週間に思う 来し方行く末 
 12月4日〜10日は「人権週間」である。これは1948(昭和23)年12月10日に国際連合第三回総会で採択された「世界人権宣言」を記念して、宣言の趣旨と重要性、人権尊重思想の啓発活動を行う趣旨で制定されたものだ。
 まさにこの12月4日に、午後1時から東京都港区芝の曹洞宗宗務庁において「曹洞宗人権擁護推進本部創設30周年記念事業準備委員会」が開催され、私も出席させていただいた。
 担当K師の説明によると、まず曹洞宗が教団として人権・差別問題にとりくむ契機となった1979(昭和54)年の「第三回世界宗教者平和会議差別発言事件」から1984(昭和59)年の第四回世界宗教者平和会議へ出席して「発言」を撤回、謝罪するまでの五年間ほどの人権本部草創期に期間を限定して、資料の収集と整理、保存などを行いたいということであった。「曹洞宗アーカイブ・プロジェクト」とのことである。
 「第三回世界宗教者平和会議差別発言事件」とは、1979年8月、アメリカのプリンストンで開催された、世界各国の宗教者による平和や人権について話し合う国際会議において、インドの「不可触民」や日本の「部落民」への差別について討議していたときに、全日本仏教会理事長・曹洞宗宗務総長M師(いずれも当時)が、再三にわたり「日本の部落問題というのは、今はない」「部落差別ということを理由に、何か騒ごうとしている人たちがいるだけ」などと発言、その結果、宗教者平和会議の『報告書』から部落差別問題に言及した字句を削除させてしまった事件だ。
 この「事件」によりM師や曹洞宗、全日本仏教会などに対して、部落解放運動や差別撤廃・人権確立を願う人びとからの激しい抗議、厳しい糾弾がなされた。その後の曹洞宗教団内のさまざまな差別事象が指摘され、その事実の確認や人権学習を行うなどして、教団として差別撤廃に向けたとりくみを始めたのだった。
 そして五年後、1984年8月23日〜31日にケニアのナイロビで開催された第四回世界宗教者平和会議に、M師や曹洞宗宗務総長・人権擁護推進本部長、同次長が参加、第三回会議での「発言」を撤回、謝罪、差別撤廃のとりくみを誓った。この第四回会議に当時33歳の私も随員の一人として派遣され参加していた。
 この第四回会議初日の全体会で、南アフリカ共和国から出席のデズモンド・ツツ主教(南アフリカ教会協議会事務局長)が、同国の人種隔離政策「アパルトヘイト」の実態を報告、「不正義に苦しむ声なき者・力なき者に、手を差しのべて行くことこそ宗教者の使命である」と訴え、私をはじめ多くの参加者の心に強い印象を与えた。
 当時の資料によると、南アフリカ共和国は人口3500万人ほどで、その13%ほどの白人、特にアフリカーナと呼ばれるオランダ系白人が権力を握り、黒人、カラード(白人と黒人との混血)、アジア人を政治的、経済的、社会的に差別し支配していた。日本人は「名誉白人」とされていた。
 ケニアに出発する前に、付け焼き刃でアフリカの歴史、社会状況などの勉強をして行ったのだが、会議に参加しているアフリカ各国のさまざまな宗教者からの発言は、人権侵害、貧困、抑圧、紛争などに関する深刻な訴えばかりだった。「差別」が、それこそ地球上には「平等」にばらまかれており、それらにとりくむことが私たちにとって必要で、重要なことだと確信した。
 帰国して一月半ほど後の1984年10月16日に、ツツ主教が人種差別反対運動の黒人指導者としてノーベル平和賞を受賞した。
 去る12月5日、95歳で亡くなったネルソン・マンデラ氏は、27年間の投獄生活を経て1990年に釈放された。その三年後の1993年に当時のデクラーク大統領と共にノーベル平和賞を受賞。翌年、全人種参加の総選挙で南アフリカ共和国大統領となる。差別撤廃、格差是正、和解と協調のために活動、国内外の多くの人びとの尊敬を集めた。南アフリカ共和国はじめ地球上にはまだまだ多くの問題が山積している。しかし、それでもツツ主教やマンデラ元大統領らと同時代に生きている一人として、私も、同国はじめ世界各地における人権状況の劇的な変化を目の当たりにしている感がある。

 


2013.12.15 Sunday 09:40
人権・平和・環境 comments(0)
消防訓練の訓練?
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 来年1月26日の文化財防火デーに、東雲寺で消防訓練を行うということになり、町田消防署の方たちが来山されました。
 境内ではしご車を伸ばして、消防訓練の折の事前の実験(操作)を行いました。
 東雲寺には町田市指定文化財「誕生仏」があり、5年に一度は大規模な消防の訓練が行われて来ました。
 5年に一度というのは、町田市内の町田地区、南地区、鶴川地区、忠生地区、堺地区の5地区があり、それら地域を一年交替で訓練を実施しているからです。
 防火デ―当日には、町田市長、教育委員長も消防訓練を視察するとのことです。
 成瀬町内会の何人かの皆さんも防火訓練に協力、参加してくださるそうです。
 


2013.12.12 Thursday 22:31
東雲寺あれこれ comments(0)
只管打坐の意味

 東雲寺仏教講座では、現在、『正法眼蔵随聞記』を拝読しています。
 11月24日の講座では、『正法眼蔵随聞記』第三巻七章段などを読みました。

『正法眼蔵随聞記』第三巻

 七 我れ在宋の時禅院にして古人の語録を見し時
 

 一日示ニ云ク、我レ在宋の時、禅院にして古人ノ語録を見シ時、ある西川の僧の道者にて有リしが、我レニ問ウテ云ク、「なにの用ぞ。」
 云ク、「郷里に帰ツて人を化せん。」
 僧云ク、「なにの用ぞ。」
 云ク、「利生のためなり。」
 僧云ク、「畢竟じて何の用ぞ。」ト。
 予、後にこノ理を案ずるに、語録公案等を見て、古人の行履をも知り、あるいは迷者のために説き聞かしめん、皆是レ自行化他のために無用なり。只管打坐して大事を明ラめ、心ノ理を明ラめなば、後には一字を知ラずとも、他に開示せんに、用ひ尽クスベカラず。故に彼の僧、畢竟じて何ノ用ぞとは云ひけると、是レ真実の道理なりと思ウて、そノ後語録等を見る事をとどめて、一向に打坐して大事を明ラめ得たり。

以下は、柚木が付した語注です。
 

我レ在宋の時  道元禅師が一二二三年〜二七年、当時の中国「南宋」に留学、天童山景徳寺で修行されている。

西川の僧  四川省、蜀の地方出身の修行僧。(第一巻四章段参照)

利生  人びとに利益を与え救済すること。

畢竟 その物事や考えをおし進めて最後に到達するところは。結局。要するに。

行履 「行」は進退、「履」は実践の意。禅宗では、日常の一切の行為のこと。行住坐臥のすべて。

自行化他のために 自分自身の修行のためにも、他の人びとを教え導くためにも。

只管打坐 一般に「ただひたすらに坐禅すること」とされる。道元禅師は「修証一等」を説かれ、坐禅を〈さとり〉を開く手段とは見なさず、そのまま仏教の教えを具現化している姿、〈さとり〉を得た仏の姿、仏の行いとされる。その意味から、坐禅こそが唯一無二の真実の修行という意味に捉えたいと思う。(『正法眼蔵随聞記』第二巻第一章段参照)

大事を明ラめ 生涯をかけて坐禅修行し究明すべき仏教の教え・〈さとり〉について明らかにし。

心ノ理  仏教の教えが示す根本の道理。この世界のすべてのものごと、宇宙に存在するあらゆるものは、みなともにただ一つの心であって、これに含まれないものはなく、これを取り込み兼ね具えないものもないという道理。(参照、『辨道話』の「一切諸法、万象森羅ともにただこれ一心にして・・・」、「三界唯一心」)

開示 仏教の教えを説き示し〈さとり〉の世界を目の当たりにするよう教え導くこと。

 



2013.12.01 Sunday 17:10
道元禅師の教え comments(0)
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