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国技館とスカイツリー
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初場所七日目のお相撲を観戦


2015.01.17 Saturday 15:17
住職雑感 comments(0)
部落解放同盟品川支部旗開に参加
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 1月9日(金)18時から、JR大井町駅前の「きゅりあん」イベントホールで新春旗開が開催された。毎年1月の第二金曜日に開催されることになっており、東京都中央卸売市場食肉市場(芝浦と場)の提供で支部旗開の名物になっている「煮込み」と「樽酒」をいただきに曹洞宗宗務庁に勤務していた当時から参加している。
 曹洞宗宗務庁人権擁護推進本部事務局長・我孫子高宏師はじめ本部員の方たち、曹洞宗東京都宗務所長・久保達夫師、副所長・渡邊雪雄師はじめ宗務所役職員の皆さま方もご参加されていた。
 インターネット上の差別書き込み、ヘイトスピーチなどの昨今の「人権」状況と人権確立・部落解放運動のとりくみなどを報告、参加者へのとりくみ要請などを織り込んだ支部長・青木郁夫さん(80歳)の主催者挨拶、その後に品川、港、大田、目黒の城南4区の副区長の挨拶などがあって、支部女性部の方たちによって鏡割、支部女性部代表の乾杯の発声で懇親会が行われた。
 部落差別問題はじめ人権啓発映像作品を数多く制作している映画監督・大熊照夫氏も途中から合流。お互いの近況を述べあい、升酒、煮込みなどを堪能した。


2015.01.10 Saturday 15:01
人権・平和・環境 comments(0)
年頭にあたって

 2015年の年頭にあたり道元禅師の教えを拝読して、仏道修行の原点を見つめ直したい。
 現在、毎月第4日曜日の15時〜16時30分、東雲寺仏教講座「『正法眼蔵随聞記』を読む」を開催している。道元禅師の説法をお弟子の懐奘さまが聴き書きした「随聞記」を拝読しながら、仏教とは何か? 修行とは何か? などを学び、考えている。これは毎年7月〜10月ころの東雲寺文化講座の開催月を除き、2012(平成24)年1月から開講して来たもので、昨年最後の日曜日12月28日の講座が第25回目だった。この回の講座で取り上げた「随聞記」第5巻の説示から二つの教えを紹介する。

  (前略)学人静坐して道理を以てこノ身之始終を尋ヌベシ。身躰髮膚者父母之二滴、一息に駐りぬれば山野に離散して終ニ泥土と作る。何ヲ以テノ故にか身を執セんや。
   況ンヤ法を以テ之レを見れば十八界之聚散、何の法をか定メて我身と為ん。教内教外別ナりト雖モ、我身之始終不可得なる事、之レを以て行道之用心と為る事、是レ同じ。先づこノ道理を達する、実ニ仏道顕然ナル者なり。 (五巻第二章段)


 以下に意訳を試みる。
 仏教の教えを学びその教えに遵って修行しようとする人は、静かに坐禅し、無常、無我の道理をもって、我が身の始まり、行く末を考えてみるべきである。この身体はすべてこれ父母の精子と卵子の出会いがきっかけであり、一旦この呼吸が止まれば、この身体を構成している諸要素は分離して山野に帰り、ついには泥土になるのである。永遠不変の常なるものなどはないのだから、どうしてこの身に執着できるだろうか。
 ましてや一切万有のあり方である理法によって私たちの身体を観察すれば、眼・耳・鼻・舌・身・意の「六根」という感覚器官、その対象となる色・声・香・味・触・法の「六境」、それらによって成立する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識という認識作用の「六識」の十八種の諸要素の組み合わせ、集合離散によるもので、どこに実体的な存在の我が身があるというのだろうか、ありはしない。「十八界之聚散」という仏教の教えや「身躰髮膚者父母之二滴」という仏教以外の教えがあると言っても、我が身の始まりから行く末まで不可得(=空)であって、これをもって修行の心得とするのは同じである。
 まず、我見(本来実体のない自我を実体視して執着すること)を離れて我が身に執着しないという道理に深く通じることが、本当に仏道を明らかにすることに他ならないのだという教えだ。
 道元禅師の説示をもうひとつ拝読しよう。

  (前略)古人云ク、「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる」ト。よき人に近ヅけば、覚エざるによき人となるなり。
   昔、倶胝(ぐてい)和尚に使へし一人の童子のごときは、いつ学し、いつ修したりとも見えず、覚エざれども、久参に近づいしに悟道す。
   坐禅も自然に久シくせば、忽然として大事を発明して坐禅の正門なる事を知る時も有ルべし。(五巻第三章段)


 以下に再び意訳を試みる。
 古人の言葉に「霧の中を歩いて行くと、知らないうちに着物がしっとりとしてくる」という教えがある。これは優れた人に近づき親しくさせていただいていると、気づかぬうちに智徳が身について人間として磨かれるということである。
 昔、倶胝和尚という方のお側近くに仕えていた一人の童子などは、いつ仏教を学び、いつ修行したとも思われないし、童子自身も気づかなかったが、永い間、仏教の教えを学び修行を積んだ倶胝和尚のような方の身近にいたので、〈さとり〉をひらくことができた。
 坐禅も自然に長い間修行していると、忽然として〈さとり〉の世界を目の当たりにして、坐禅が仏教の正しい教えであることを分かるときがあるのだという教えである。
 我見を離れ、我が身に執着せず、坐禅修行を続けてまいります。今年もよろしくお願いいたします。



2015.01.04 Sunday 17:07
道元禅師の教え comments(0)
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