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そもそもなぜ葬儀をするのか を 考えてみませんか

 今年最初の坐禅会の後でHさんからお手紙と自作の漢詩をいただいた。Hさんは折にふれてお手紙や漢詩を届けてくださる方である。氏はお仲間とともに漢詩や写真などの趣味の活動をなさっておられ、東雲寺坐禅会には1987(昭和62)年から参加くださっているベテランの参禅者だ。また、毎月第四日曜日午後開催の東雲寺仏教講座だが、6年ほど前に一時中断していた折、「『正法眼蔵随聞記』を読む」で再開するきっかけを与えてくださった方でもある。

 

  (前略)12月3日の「坐禅会たより」で「そもそもなぜ葬儀をするのか」(12月10日ブログ掲載)の一文を掲げられましたが、私も最近の親族の葬儀で「哭薄葬(こくはくそう)」という漢詩を作りました。
  「焼き場」でご遺体を焼却し、そのまま後日、市営墓地に納める。儀式も永別のご挨拶もしない。一体どういう事でしょうか? 「たより」の一文も現代の風潮をただ報じているだけではないのでしょうか? 具体的な対応策を提案できないのでしょうか? 葬儀の簡略化と精神的な家族の結びつきの崩壊とは関係がないのでしょうか? 人類は時代とともに「儀式」を考案して精神の作興(さつこう)と社会の維持を図ってきました。さらに宗教者がその役割を担ってきたのだと思います。
  やさしい社会をと言われるだけで、恐ろしい犯罪とも言えない理解に苦しむ事件が続発しております。
  家族制度の崩壊により、「本家」は存在しなくなり、我が家では分家の長男である私が本家の代わりを果たしておりますが、これにもおのずと限界があります。今まさに「眷属(けんぞく)の他人化」が始まっているのでしょう。
  「死者儀礼の放棄」から「良俗の崩壊」に突き進み社会は「混沌化(こんとん
か)」するのでしょうか。
  友人にこの話をしても「今は、何処でもそうだよ」と平然としております。自分も高齢となりこの先が分からなくなってきております。
  ぜひ問題提起のみではなくて、住職が現実と向き合って我々大衆をお導き頂けたら幸いです。

 
    哭薄葬
  十月の寒風 故人を哭し
  子孫眷属 愁ひを抱きて顰(ひそ)む
  忽忙(そうぼう)たり身世(しんせ) 黄梁(こうりょう)の夢
  寂寞(せきばく)たり  何ぞ堪へん 総て塵と為るとは

 
 漢詩後半の二句の意味を推し量るに、葬儀に参列して思うことは、私たちの一生はせわしく、人生は儚(はかな)い。最後はすべては塵のように取るに足らないものになってしまい、もの寂しい限りだなぁというような意味だろうか。

 

 漢詩をいただいたこともさることながら、「そもそもなぜ葬儀をするのか」に対して、Hさんがこうしたご意見をお寄せくださったことに対し心から御礼を申し上げたいと思う。願わくはブログ読者各位におかれても、このことに関するご意見ご感想などをぜひお寄せいただきたい。
 

 お手紙にあった宗教者は現実と向き合って大衆を導いてほしいということについての応答は暫く猶予をいただきたい。その代わりに現状認識を共有し、ご意見ご感想などをいただくため、私が近年の葬儀において見聞きし感じていることのいくつかを以下に記す。ご一読願いたい。


 高齢者の葬儀の場合、家族や近しい親族でも高齢のため参列できず、しない場合が多い。まして友人知人の参列などはほとんどない。さらに少子化、晩婚化、生涯独身者の増加などによって、故人を送る側の人数が少なくなったように思う。親と子や孫たちとが同居しておらず、家計が親子別々なためか、5、60歳代の子であっても喪主を務めず、高齢の配偶者などが喪主になるケースが多い。親子同居せず、あるいは近所に住んでいない子たち次世代へ、地域社会の付き合いや慣習、寺院との関わりなどが伝承されなくなっている。そしてこの次世代の人たちへの東雲寺からのアプローチ手段、接点が、現時点ではほとんど無いのだ。



2018.01.31 Wednesday 09:56
住職雑感 comments(0)
原始仏典『法句経』を読む 

 東雲寺仏教講座で『法句経』を読むことにした。念のため申し上げるが、『法華教』と名前が似ているが、まったく違うお経である。『法句経』とは原始仏典のひとつで、お釈迦さまの〈生〉の言葉が記されているとされているものだ。『仏典解題事典』第二版(春秋社、1977年)の解説を見てみよう。

 

 法句経(ダンマパダ、真理のことば)。パーリ語で書かれた南方上座部の経蔵(小部)に含まれるテキスト。

 全編432の詩集で、これを対句・不放逸・こころ・花・愚か者・賢者・拝むに足る人・千の数・悪・むち・老・自己・世間・ブッダ・安楽・愛好・怒・汚れ・真理に生きる・道・雑集・地獄・象・欲望・修行僧・バラモンの26章に分類している。主として単独の偈(詩)を集め、時として二偈もしくは数偈が群をなす。この詩集の内容をよく見ると、ある時期に一人の人が書き下ろしたような作品ではない。原始仏教教団の中にあって、いろいろな形で伝えられていた詩を集めて、編集したものであることがわかる。編集の時期は、紀元前4〜3世紀であろうが、個々の詩ははるかに古い起源を有する。本経は仏教の倫理的教義を教えて仏道入門の指針としている。膨大な仏教経典の中でも最古のもので、ブッダの真意を伝えた珠玉の文字として珍重される。古来最も広く仏教徒に愛誦せられたもので、これほど古くまた広く仏教徒に読まれた聖典は他にないと言ってよい。したがってまた異本が多い。(後略)

 

 仏教講座で『法句経』を読み進めるために、以前より所持していた数冊の『法句経』関係の書籍の他に、新たにいくつかの現代語訳や講義本などの書籍を購入した。それらにざっと目を通して、講座での学習、検討材料として、四種の現代語訳や漢訳などを選択し、東雲寺仏教講座の独自教材を作成した。
 その四種の訳を『法句経』の中の一つの偈(詩)を例に見てみよう。『法句経』と言えば友松圓諦(1895〜1973年、日本の宗教家、仏教学者)と言われるほどの方だが、その友松師によるパーリ語経典からの邦訳と現代語訳を『法句経』(講談社学術文庫、1985年)から紹介する。まずはその独特な味わい深い邦訳。括弧内は友松師独特のふりがなである。

 

   意(おもい)は諸法(すべて)にさき立ち
   諸法(すべて)は意(おもい)に成る
   意(おもい)こそ諸法(すべて)を統(す)ぶ
   きよらなる意(おもい)にて
   且つかたり且つ行わば
   形に影がそうごとく
   たのしみ彼にしたがわん

 

 次に友松師による現代語訳。

 

 もろもろの事象は意志にしたがって生起する。それゆえに、意志はそれらに対して支配者であり、作者である。誰でも、もし純な意志をもって、或は語り、或は行うならば、やがて、たのしみは彼にあとづける。ちょうど、あの離れることをしない影のように。

 

 三つ目は紀元224年に支謙・竺将焔によって訳された漢訳経典を友松圓諦訳『法句経』(講談社、1975年)から紹介し、返り点を参考にしてその読み下し文(柚木の訓読)を掲げる。

 

  心為法本 心尊心使
  中心念善 即言即行
  福楽自追 如影随形
 
  心を法本と為す。心、尊く心に使わる。中心に善を念じて、即ち言い即ち行わば、福楽の自ら追うこと、影の形に随うが如し。

 

 四つ目は中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』(岩波文庫、1978年)の現代語訳。

 

  ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。    影がそのからだから離れないように。

 

 ここの「清らかな心」とは、仏教語の「清浄心」であり、この清浄は浄・不浄の浄の心ということではなく、「とらわれない心」「執着のない心」のことである。
 こうして複数の訳文を並べて見ていると、漢訳者たちのはたらきに深く敬服しつつも、私などはこれまでほぼ漢訳経典だけで仏教を学び、考え、教えを説こうとして来たようであり、忸怩たる思いがある。



2018.01.31 Wednesday 09:36
仏教の教え comments(0)
朝日が射し始めた境内の雪景色
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2018.01.23 Tuesday 17:49
東雲寺あれこれ comments(0)
東雲寺墓地の雪
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2018.01.23 Tuesday 17:43
東雲寺あれこれ comments(0)
今朝の雪作務
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南岸低気圧による降雪。昨1月22日の11時くらいから雪。夜11時には止んでましたが、東雲寺境内は25〜30センチの積雪がありました。朝6時過ぎから雪掻き。
東雲寺の表参道、成瀬街道に出るまでの歩道を除雪。さらに午後1時過ぎからは、シャーベット状の車道で明朝凍ると思われるところを除雪しました。


2018.01.23 Tuesday 17:40
東雲寺あれこれ comments(0)
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