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東雲寺仏教講座『法句経』「千という数にちなんで」

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 昨年暮れからの東雲寺仏教講座では原始仏典『法句経』を読んでいます。

 『法句経』26章423詩句の中、今回は第7章「拝むに足る人(真人)」の94〜99詩句、第8章「千の数(千という数にちなんで)」100〜115詩句を拝読しました。中村元先生の『ブッダの真理の言葉』(岩波文庫)の語注によると、100〜115詩句は「かなり古い時代に由来するらしい」とのこと。紀元前4〜3世紀に成立したと言われている『法句経』の中でも、古い時代から仏教者たちによって唱えられていたお釈迦さまの教えということだろうか。

 

100 無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。


101 無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

 

102 無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

 

103 戦場において百万人に勝つとしても、唯だ一つの自己に克つ者こそ、実に最上の勝利者である。

 

104、105 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、  このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。

 

106 百年のあいだ、月々千回ずつ祭(まつ)祀(り)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供(く)養(よう)するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。


107 百年のあいだ、林の中で祭祀(まつり)の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。


108 功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神まつり犠牲(いけにえ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。


109 つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種のことがらが増大する。  すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。

 

110 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。


111 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

 

112 怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。

 

113 物事(ものごと)が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。

 

114 不死(しなない)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。


115 最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。

 




 



2018.05.28 Monday 07:36
仏教の教え comments(0)
解らないところを解る必要がある

  最近、テレビや新聞の報道などで「セクシャルハラスメント」「パワーハラスメント」などの言葉をよく耳にし、目にする。
  社会的に強い立場にある人間が、それに比して弱い立場にあるものに対して無自覚(?)にその人を深く傷つける言葉を口にしたり、相手の人格を無視した行為を行ったりしたことが次々と告発されているのである。セクシャルハラスメント、パワーハラスメントをした人間ーーそれがたとえ大きな権力を持った人間であろうと、政治家や政府高官であろうと、職を辞するようなことになったケースが国内外で何件かあった。
  30年ほど前の話だが、かつて拙(わたし)が勤務していた教団本部の事務所で、1989(平成元)年当時、流行語になりつつあった「セクハラ」という言葉を、後輩T師の口から発せられるのを初めて聞いたとき、拙はまったくチンプンカンプンで、その意味を理解することができなかった。しかし、それから間もなくして、「セクハラ」という言葉に、毎日のように女性職員の肩や首筋などを揉み、腰に手を回わし、ときに卑猥な言葉を口にし、それを「挨拶代わり」としていたR部長の言動を抑止する力があることを拙は知ることになった。
 私たちが生活する現代社会が、R部長のそれらの言動を「セクシャルハラスメント」と呼ぶことによって、その行為は社会的に許されない性的いやがらせであり、性的・差別的な言動だということを改めて確認したのである。それまで人格を無視され、性的対象物のように貶められ、それに対する怒りで顔を紅潮させながら耐え忍ぶことを強いられて来たことも、被害を受けて来た人びとが「セクシャルハラスメント」という言葉を手にすることによって、〔今日でもまだ勇気を振り絞る必要があるのだろうが〕抗議し、謝罪を求めることができるようになったのだ。
 「人権」という概念は、この「セクシャルハラスメント」の例と同様に、人としての尊厳を踏みにじっている何か不正義なこと(?)に気付き、その何かを除くためにとりくむ中で、ときにそれに名付けし、私たちが啓発され、社会の共感を得ながら成長し続けていくものだと思う。

 ということは、「人権」を学び続ける努力をし続けないと、チンプンカンプンで、それが分からないことということも出て来るのだろうと思う。その社会、その分野における権威であっても、実力者であっても、「人権」の学びを怠っていると、自身は「分かっている」と思っているらしく、周囲からの助言や注意を受けつけず、「分かってる」「分かってる」を繰り返し、結局、事を大きくしてしまっているようなことが目につく。

 

 話はまったく違うが、拙がかつて親しくご指導いただいたことのある、誠実な道元禅師研究者であられた春日佑芳先生(1929〜2002年、東京大学文学部倫理学科卒、防衛大学名誉教授)の『新釈正法眼蔵』(ぺりかん社、1995年)の「一生多生の参学  あとがきにかえて」の中に、先生の父上・春日佑幸師のエピソードが記されていて、そこに「解らないところが解る」というフレーズがあったのを思い出した。


 佑幸師は、旧制中学の国語・漢文の教師を退いた後、後半生の約20年間、『正法眼蔵』の解読にとりくんでいた。その研究成果がまとまると、曹洞宗大学(現駒澤大学)時代の恩師・衛藤即応先生(1888〜1958年、駒澤大学総長)に送りご指導を頂いていた。衛藤先生は近代曹洞宗の宗学の確立に尽された方だ。研究者や曹洞宗内では「衛藤宗学」として知られている。
 衛藤先生は、佑幸師の原稿を読んでは、それにコメントして返却。佑幸師が推敲、修正して、それをまた衛藤先生に届けるということをしていたようだ。「四訂」の原稿もあったという。
 その衛藤先生の佑幸師への励ましの言葉が「解らないところのある眼蔵家(『正法眼蔵』研究者)になってほしい」だった。衛藤先生は、『正法眼蔵』研究において、解らないところがどこかを解るぐらいまで研究するようにと言ったのである。
 「人権」も解らないところを解る必要があるのだ。



2018.05.21 Monday 14:11
人権・平和・環境 comments(0)
東雲寺仏教講座・文化講座参加者募集

 東雲寺仏教講座参加者募集中

 

お釈迦さまの「生」の言葉を記した

仏教最古の経典『法句経(ほっくきよう)』原題「ダンマパダ(真理の言葉)」を読んでいます。

 

5月27日(日)15時〜16時30分
6月24日(日)15時〜16時30分

 

◇ 参加費 無料(但し、ご賛同下さる方は、東日本大震災募金として資料代200円をお願いします)

◇ 資料や会場準備の都合上、参加希望の方は、必ず予めご連絡ください。

 

お申し込みは
     〒194-0044  町田市成瀬4-14-1 東雲寺
     FAX 042−721−2964
     TEL 042−726−5909
     Eメール butudou-sogen@vesta.ocn.ne.jp

 

7月〜9月第4日曜日午後15時〜16時30分
        明治大学名誉教授・圭室文雄先生の文化講座

今年は「鎌倉の寺院」がテーマです。

  7月22日「建長寺」

  8月26日「円覚寺」

  9月16日「光明寺」

で開催予定です。



2018.05.16 Wednesday 12:01
東雲寺あれこれ comments(0)
大逆事件に関わる二冊の図書の指摘

 

 

  定期購読している月刊誌の一冊、岩波書店の『図書』2月号の新刊案内の中に田中伸尚著『大逆事件  死と生の群像』があり、発行日2月16日を心待ちにして購入した。また、『大法輪』4月号に佼成出版の新刊書、眞田芳憲著『〈大逆事件〉と禅僧内山愚童の抵抗』の広告があり、これもすぐに注文、3月15日に入手した。
  「大逆事件」について『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)は次のように解説する。

 

 幸徳事件とも。明治天皇暗殺を計画した容疑で、多数の社会主義者・無政府主義者が逮捕された事件。赤旗事件以後社会主義運動の弾圧が強化されるなかで、1910年(明治43)5月、まず宮下太吉ら4人を爆発物取締罰則違反で検挙し、つづいて全国各地で事件に無関係な者も含めて数百人を検挙。うち26人が刑法の大逆罪にあたるとして起訴された。大審院は一審のみの非公開公判で幸徳秋水ら24人を死刑(坂本清馬ら12人は特赦により無期に減刑)、新田融ら2人を有期刑とした。幸徳らは11年1月24・25日に処刑。以後、社会運動は「冬の時代」を迎えた。判決後50年目の61年(昭和36)、唯一の生存者坂本らは再審を請求したが、最高裁で棄却された。

 

 「大逆事件」については、事件に連座させられ処刑された内山愚童(箱根大平台の曹洞宗林泉寺住職。秘密出版で「非戦」を主張)や大石誠之助(和歌山新宮の医師。尊皇報恩を説く大内青巒と論戦、青巒を「飯を食ふ仏教大辞典」と批判)などについて「坐禅会たより」で何度か取り上げて来た。
 「大逆事件」は、明治政府が軍国主義化を進める中で、天皇暗殺の全国規模の大陰謀事件をでっち上げ、社会主義者や無政府主義者を抹殺しようとした大弾圧事件だった。すなわち大逆罪によって処刑、投獄された人たちは、そのきっかけとなった事案に関わる数人を除きほとんどが無実の罪を着せられた犠牲者たちだった。
 眞田芳憲著『〈大逆事件〉と禅僧内山愚童の抵抗』の「はしがき」は次のようにいう。

 

 いま、わが国はは集団的自衛権行使を容認する安全保障法制や特定秘密保護法の制定に続き、いわゆる共謀罪を改め「テロ等準備罪の新設法案」の立法化、1948年の国会で失効した「教育勅語」の復権、そして帰するところは「日本国憲法」の改正へと、「いつか来た道」の瀬戸際に立たされている。いや、むしろ日本国憲法の空文化の地均しが着実に進められていると見るべきかもしれない。今日の日本は、まさしくかつての「大逆事件」の時代相に近づいているのではないだろうか。

 

 田中伸尚著『大逆事件  死と生の群像』では、著者が訪ね歩き調査した大逆事件の犠牲者やその遺族、関係者  森近運平、宮下太吉、高木顕明、成石平四郎、松尾卯一太、大石誠之助、沖野岩三郎、新村善兵衛、新村忠雄、武田九平、飛松與次郎、小松丑治、坂本清馬などを取り上げ、さらには当時、政府当局を弾劾する講演の記録『謀叛論』(岩波文庫)の徳富蘆花のことや遺族慰問の旅を続けた堺利彦のことなどを、緻密な取材によって書き上げている。その「あとがき」に次の一文がある。

 

 連座させられた人びとは、程度や思いに差はあったが、また当時の社会にあっては少数者であったけれども、戦争に反対し、荷担しないという生き方を貫き、宗教者として被差別者に寄り添い、どうしたら平等で自由な社会にできるかを思索し、国家・天皇と個人の関係はどうあればいいのかなど生きる個人としてののっぴきならない問題と取り組み、悩み、突き当たり、時に性急に生きた人びとだった。彼らが社会主義や無政府主義を通じて気づいたこれらの問題は、文学や思想のテーマでもあり、ジャーナリズムの課題でもあった。そしてそれらは、現在の問題としてもある。

 

 憲法前文にいう「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ため、平和を希求するとりくみを不断の努力で続けて行きたい。



2018.05.07 Monday 13:54
人権・平和・環境 comments(0)
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