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夏の子ども坐禅会

 毎年恒例の東雲寺「夏の子ども坐禅会」(第一回)が、夏休み最初の日曜日、7月23日朝7時から開催。

 小学生、幼稚園児41名、保護者の方たちや東雲寺坐禅会のメンバー48名がご参加くださいました。

 子どもたちに何をどうお話するかを考えて、悩んだあげくに、当日朝を迎えますが、毎年、とても緊張します。

 

  次回8月の子ども坐禅会は、夏休み最後の土曜日、8月26日の朝7時〜8時に開催予定です。



2017.07.25 Tuesday 08:33
東雲寺あれこれ comments(0)
東雲寺の衝立

2017070917520000.jpg
  東雲寺の本堂に年月を経て色あせた衝立(縦100✕横90僉砲ある。

  一面に「竹に雀」の絵、もう一面に「此の道よ里 わ連を生可須見知奈し この道越歩く」という草書体の書が表具されたものである。この言葉自体は武者小路実篤(1885〜1976年)の「この道より我を生かす道なし。この道を歩く」だが、筆跡から見て、書を認めたのは先代住職柚木能宣大和尚(2017年6月18日遷化〈逝去〉)だと思われる。万葉仮名まじりの草書体の書のため、拙は衝立として使い続けながらも、きちんと読むことなく漠然と見ているだけで、最近まで一部判読できずにいた。
 先代能宣大和尚は、1925(大正14)年7月23日、東雲寺十九世柚木祖岳・トシ夫妻の一女五男の末っ子として誕生。

 1938(昭和13)年6月に師父・祖岳さまのもとで仏門に入る一方、横浜商業高校(Y校)へ進み、さらに戦中戦後に駒澤大学東洋学科において修学。
 1945(昭和20)年4月、先代は学徒動員で徴兵、岐阜県各務原で新兵訓練を受け、房総半島からの敵軍上陸に備えるため、東海道線が爆撃を受けたために、中央線経由で千葉県習志野に移ったそうだが、その直後の8月15日に敗戦、無事復員できた。
 1947(昭和22)年3月、先代は大本山總持寺で修行、5月に師父の祖岳さまの法を嗣ぎ、次いで7月に大本山永平寺、9月に大本山總持寺で瑞世(「一夜住職」としての儀式)を行っている。
 そして同年9月末日に駒澤大学を卒業。
 翌1948(昭和23)年3月8日、祖岳さまが遷化、この前後に、当時、南村立第二小学校の校長だった亀山道鱗師(高ヶ坂祥雲寺住職)の勧めで代用教員として勤務、後に教員免許を取得、1971(昭和46)年まで二十三年間、教員生活を送っている。
 先代が生前よく口にしていたことのひとつに「東雲寺が乗っ取られそうだった」ということがあり、祖岳さまの遷化後、先代と兄弟子K師との間で後継争いがあったという。東雲寺の本寺・雲松院(横浜市港北区小机町)の当時住職だった内野昇陽さまの説得、後押しで、先代能宣師が東雲寺住職になることになって、1950(昭和25)年4月22日に正式に住職就任、弱冠24歳9ヵ月で東雲寺を護る立場になった。
 この兄弟子K師というのは、先代の実兄たちのことではない。兄たちは、早世した次男をはじめ、病気や戦争によって次々と後継者としての道から外れて行き、周囲の関係者たちが「五男の能宣を後継にしよう」ということになったのだろうと思われる。それが祖岳さまが遷化される前年に、先代能宣師に後継者としての資格を取得させるための手続きを慌ただしく行っていることからも推測できる。
 一女五男の末っ子として生まれた先代は、まさか自分が父親の跡を継いで僧侶になるとは思っていなかった。実業家への道を歩む夢を持っていた先代が、周囲からの働きかけによって、駒澤大学に進むことになったようである。
 先代は、「Y校」出身を誇りにし、経理や簿記が得意だった。最晩年まで私的な収支の家計簿をつけていたし、住職在任中は、どんなに遅くなっても、その日の東雲寺の収支を出納帳に記入していた。十数年前に、収入欄と支出欄の数字が逆になっていたことを友人の会計士さんから指摘され、「そろそろ若檀那に住職を譲ってはどうですか」と言われたことがあった。それからしばらくして先代から拙への住職交替となった。
 先代が四、五十歳代のときには、すでに自他共に認める能書家になっていたが、先代が二十代で書いた若々しい文字のお位牌が何軒かの檀家さんの仏壇に残っている。たぶん必要に迫られ、先代は書道を習ったようだ。そのときに指導者から与えられた仮名文字の課題だったのか、それとも自分が好きな言葉だったのか不明だが、実篤の「この道より我を生かす道なし。この道を歩く」を書き、本堂の衝立にしていた。
 先代は小学校教師をしながら東雲寺住職を務めている自分に「この道だ」と言い聞かせていたのだろうか。

 



2017.07.09 Sunday 17:53
東雲寺あれこれ comments(0)
前住職が遷化(逝去)

 

  曹洞宗では、その寺の前住職を「東堂」という。

 東雲寺21世住職柚木能宣大和尚が2007(平成19)年2月に拙に住職を譲り東堂となった。その数年前から「法衣が重い」と言って、住職辞任の意向を漏らしていたが、拙は「まだまだお元気なのだから生涯現役で住職を続けていただきたい」と申し上げて来た。しかし、2006年9月ころから、檀信徒の年回法要などにほぼ出仕しなくなった。
 東堂になってからは二月に一度、東堂夫妻と親戚などの数人で二泊三日の温泉旅行を楽しんだり、白河市に嫁いだ次女のところを訪ねたりして、悠々自適の日々を過ごしていた。
 2014(平成28)年の夏に体調を崩して入院して以来、一月半毎に一週間くらいの病院生活を繰り返すようになり、見る見る体力、気力が衰えて来た。昨年秋、高齢者介護施設に体験入居、そこから病院に入院、介護施設と病院とを往き来しながら過ごす中で、誤嚥性肺炎などを繰り返し、ペースメーカーで心臓が動いているだけのような容態となり、6月18日(日)21時45分に家族に見守られながら永眠。享年92歳。
 能宣東堂は、実質59年間もの長期にわたり東雲寺の住職を務め、さらに1948(昭和23)年から二十三年間は地元小学校の先生もしていた。東堂の大夜(通夜)と本葬儀が6月27日(火)、28日(水)に行われた。
大夜の後片付けをした後、夜遅くに郵便受けを見てみると、配達されたままになっていた新聞朝刊とともに一通の封書があった。氏名をイニシャルにして、以下にその手紙を紹介する。

 

  先生は僕の小学校二、三年生の担任教師でした。
  先日、五十五年前の赤茶色に変色した通信簿を読み返しました。通信欄や行動の所の所には枠一杯に小さな文字でビッシリ色々な事が書かれてありました。三年三学期の最後の欄には「明るく行動的で元気に満ちています。益々成長されますよう祈ります。」
  教え子を見守る目の温かさを感じ涙が溢れました。
  午後に体操の時間があると、なぜか「体操着を忘れたので家に取りに行って呉れないか」と呼び止められました。
  一組みしかないクラスの中で僕はY・H君の次に足には自信がありました。給食を早々と食べ、東雲寺に走りました。
  風呂敷に包まれた体操着を受け取り学校へ戻ろうとすると、奥様が「ごくろうさま、ハイ、お駄賃!」と、鉛筆、消しゴム、ノートなど、その都度、何度も頂きました。そしてその頃は満足に学用品が買えなかった時代、大変ありがたく、うれしく思いました。その品々でいっぱい勉強していたらなぁと、今頃になって悔やみます。
  僕が一時期、ある事で悩み、先生にご相談したところ、しばらくして頂いた便箋二枚には、老子の「上善は水の如し」と書かれ、その言葉の解説が細かく記されてありました。
  「水は万物を潤し、この水によらずに生きることの出来るものは何も無いにもかかわらず、水はそれによって他を支配しよういうことはない。又、人間が高い所を求めるのに対して、水は低い所へと流れていくだけだ。更に水は低い所へと流れることによって次第に大きい流れとなり、大海になることができる。」
  善とは道徳にかなったこと・・・善い事をして、親切にしてやっても決してお返しを求めない、善は一方通行である」と結んであります。
  何度も読み返し、そんな水のような生き方に想いを巡らすとなぜか気持が楽になりました。
  東堂の御遷化により黄泉の国で桜龍会の仲間達と再会することでしょう。皆で限りなくあり余る時間を飲み続けて下さい。
  小学生の作文のようになってしましましたが、先生の前ではずっと生徒であり、それを誇りに思います。
      南第二小学校三年一組六番 R・I

 

 今なら問題になりそうなこともあったようだが、五十五年前の長閑な時代でのこと。東堂の孫娘たちがこの手紙を読んで涙、涙、涙。翌朝、R・Iさんに連絡を取り、急遽、本葬儀の中で教え子からのお別れの言葉としての奉読をお願いした。



2017.07.09 Sunday 17:49
東雲寺あれこれ comments(0)
ツユクサの紫色が鮮やか
2017060313420000.jpg
草取りをしていて、ふと眼をあげると、紫色のツユクサの花が鮮やかにさいてました


2017.06.03 Saturday 13:44
東雲寺あれこれ comments(0)
明日から6月
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駐車場のツツジ、サツキがとてもきれいです。


2017.05.31 Wednesday 19:59
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防空壕がありました
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本堂裏手の崖の草刈りをしてました。

防空壕が草の中から出て来ました。


2017.05.31 Wednesday 18:17
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アジサイの季節
2017052909320000.jpg
気がつくとアジサイが色づき始めていました。


2017.05.29 Monday 09:35
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合掌の仕方(道元禅師『赴粥飯法』による)

  東雲寺仏教講座「『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』を読む」を開催している。いつもは毎月第四日曜日の午後開催なのだが、5月の第四日曜日は所沢市薬王寺さまの結制法要に随喜参列のため、第三日曜日5月21日開催となった。
  『赴粥飯法』とは禅の修行道場などでお粥やご飯をいただくときの作法ということだ。講座で使用するテキストは道元禅師(1200〜53年)が越前(福井県)永平寺において書き示されたと考えられている著作である。入堂法(にゅうどうほう=僧堂〈坐禅堂〉に入るときの作法)、上牀法(じょうしょうほう=各自の坐位に上がる作法)・下鉢法(あはつほう=応量器〈修行者が携帯する食器〉を高いところから下ろす作法)・展鉢法(てんぱつほう=応量器を展開し、入れ子状に重ねられた五つの小鉢などを並べる作法で、受食の用意をすること)・行食法(ぎょうじきほう=給仕人が食物を配る作法)・受食法・洗鉢法などが細かに丁寧に示されている。
食事に関する作法集なのだが、僧堂(坐禅堂)への入り方や合掌の仕方などが具体的に書き示されているので、いくつか紹介したい。
 まず、最初に僧堂(坐禅堂)へ入るときの注意事項である。原漢文だが、書き下し文にする。


  大衆は一時に入堂す。入堂の間、黙然として行き、点頭語笑することを得ず。一時に入堂し、堂に在りては言語説話することを得ず。唯だ黙するのみ。


 修行者たちは一斉に僧堂(坐禅堂)に入る。入堂するときは黙々として行き、頷き合ったり、話をしたり、笑ったりしてはいけない。一斉に入堂した後は、僧堂(坐禅堂)内で話をしてはいけない。ただ黙っている、という教えである。
 次に合掌の仕方と僧堂(坐禅堂)への入り方。


  入堂の法。合掌を面前に欧欧篤る。合掌するには、指頭は当に鼻端に対すべし。頭低るれば指頭も低れ、頭直ければ指頭も直し。頭若し少しく斜めなれば、指頭もまた少しく斜めなり。其の腕は胸襟に近づかしむること莫れ。其の臂は脇下に築かしむること莫れ。

 前門より入るには、上下間の者、並びに南頬より入る。先ず左足を挙げて入り、次に右足を入れて行く。北頬並びに中央より入らざる所以は、蓋し住持人を尊崇するならん。住持人は当に須らく北頬並びに中央より入るべし。若し中央より入るには、先ず右足を挙ぐるが乃ち正儀なり。


 僧堂(坐禅堂)への入り方。顔の前に手を合わせ合掌して入る。合掌は、指先が鼻の高さになるようにする。頭を下げるときは指先も同様に下げる。頭がまっすぐのときは、指先もまっすぐであり、頭を少し傾けるときは指先も少し傾けるのである。合掌のときの腕は胸や襟元に近づけてはいけない。その臂は脇の下につけず、横に張るようにする。
 坐禅堂の正面から入る場合、坐禅堂内の中央より右側、あるいは左側の座位に坐る人は、入口の左側(南側)から入るのである。このときまず左足から入り、次に右足を入れる。入口の右側(北側)とか中央から入らない理由は、住職を尊ぶためである。住職は入口の右側や中央から入るのである。中央から入る入るには、まず右足から入るのが正しい方法である。
 さらに坐禅する場所に上がる法。


  上牀の法。隣位に問訊す。所謂、牀座に向いて問訊すれば、則ち上下肩に問訊するなり。順に上肩を転じ〈上肩とは左肩なり〉、次に対座に問訊す。(後略)


 僧堂(坐禅堂)内の禅牀(ぜんしょう=坐禅する場所・座位)への上がり方。僧堂の坐位で自己の左右両隣り〔の人〕に合掌し頭を下げて挨拶する。このとき、自分の坐位に向かって挨拶すると、左右両隣り〔の人〕に挨拶したことになる。次に左側に転じて、向かい側の坐位〔の人〕に合掌して頭を下げ挨拶するのである。
 40年ほど前に『赴粥飯法』を読んでいて、臂を張って合掌し、その指先が鼻の高さになるようにという教えを目にして、師匠や先輩たちが言っていた合掌の仕方は、このことだったかと納得した。



2017.05.27 Saturday 12:47
道元禅師の教え comments(0)
赴粥飯法を読んでます
2017052121530000.jpg
東雲寺仏教講座で、禅の修行道場における食事をいただくときの作法の教え『赴粥飯法』を読みつつ、仏教の教えを学んでます。


2017.05.21 Sunday 21:59
- comments(0)
高齢化多死社会 弔われない死者

 今年11月に都内のホテルで関東地方の曹洞宗寺院住職など有志の集会の予定があり、その中で将来の寺院住職のあるべき姿について考えるシンポジウムが計画されている。その準備のため、意見発表を願う専門家数人から予め話を聴く学習会が随時行われて来た。3月初めの第四回学習会では永平寺東京別院長谷会館会議室において『月刊住職』編集発行人・矢澤澄道師のお話を伺った。現代社会の問題について考えさせられることが多かったので、その概要(文責・柚木)を以下に紹介したい。

 

 今日の日本の状況を見る上で重要な視点のひとつが「多死社会」ということだ。

 2017年の推定年間死者数は130万人。過去を探ってみると明治40年ころから、ずうっと年間死者数100万人が続いていた。昭和23年ころから減り始め、一時期60万人ぐらいまでになり、60〜70万人で推移して来た。平成元年に80万人、平成14年に90万人余。来る2040年の166.8万人がピークで、22世紀になっても100万人を越える死者が出ると推計されている。100人に1人が亡くなるとされる時代が間もなく来る。
 ただし、過去と現在では異なる点がある。現在は「多死社会」であり「高齢化」が進んでいるということだ。たとえば大正時代も「多死社会」だったが、「高齢化」社会ではなかった。平成28年版『高齢社会白書』の「高齢化の現状と将来像」という図表を見ると、昭和25年には、高齢者1人に対して12人の現役世代がいた。平成27年には高齢者1人に対し現役世代は2.3人で、将来的には1人しかいない状態になるという。
 これはどういうことかというと、死者が多くても葬儀を営む側の人が少ないということだ。つまり1人では葬儀費用などを負担できないという経済的な問題、家族や親族がいないという人的問題によって「葬られない・弔われない死者」が出て来る。これは個人の問題に止まらず、社会で対応すべき問題になるだろうから、当然、社会保障としての葬送という問題が起きて来る。そのときの一番の接点は寺院ではなく、自治体だ。自治体が「葬られない・弔われない死者」にどのような形で対応するかが大きな問題となる。毎年、引き取り手のない遺骨が全国で約4000体、東京都内で180体ほどある。
 横須賀市が「エンディングプラン・サポート事業」ということを始めている。日本社会では親族が葬送義務者なのだが、親族がいない場合、自治体の長が葬送を行わなければならない。その場合、「親族がいない」ということを確定しなければならず、それはとても時間がかかる。そこで予め一人暮らしで身寄りのない人、月収16万円以下、貯金100万円以下、不動産を所持していないという条件の人を対象に希望者を募り、登録制度を作った。常時、登録カードを所持、万が一の時には、市と契約を結んでいる葬儀社が葬儀を行い、市営霊園または協力寺院の無縁塔に納骨するというものだ。
 これから団塊世代が亡くなる。多くは生活困窮者ではない。富裕者でも孤独死する。父母や連れ合いなどの介護をし終わったとき、家族は誰も面倒を見てくれない、絶縁状態のような状況も想像される。そのとき、自分の死をどのように迎えられるか。〈私〉たちは孤独死を覚悟しなければならない。そういう時代になっている。
 社会保障としての葬儀を寺院が引き受けるとすると葬儀件数が格段に増えるが、都市部に寺院が少ないため、住職は過労の状態になる。『宗教年鑑』によると平成25年末時点で、神奈川県で4791人に一ヵ寺、東京都で4629人に一ヵ寺。その反対に福井県は470人に一ヵ寺、富山県が673人に一ヵ寺だ。寺院が多く、一ヵ寺あたりの人口が少ない県ほど「幸福度」が高く、逆比例している。社会の安定のため、人心の安穏のため、寺院が必要ということを社会に対して訴える必要もあるだろう。

 

  何もかも普段は考えないようなことばかりだ。が、〈私〉たちも考えなければならないことのようだ。 



2017.05.12 Friday 10:18
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