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境内の藤の花

 

 朝のお散歩で東雲寺に立ち寄る中で、藤の花の写真を撮っている方たちがいます。

 もう少し紫色が鮮やかになるような気がしますが、朝日に映える藤の花の鮮やかさは、写真では分かりません。

 



2020.04.25 Saturday 17:57
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敵味方の差別なく日露戦争負傷兵を看護した堀江トヨさん

 日露戦争従軍看護婦・堀江トヨさん(1878〜1906)の遺品を拝見する機会があり、そのことを通して、そのお徳、ご生涯を偲びつつ、トヨさんが生きた時代を見てみようと思っている。
 日本赤十字社のホームページによると、1889(明治22)年6月に「日本赤十字社看護婦養成規則」を制定し、同年11月に看護婦生徒募集や養成手続きの草案をまとめ、生徒募集10名で1890(明治23)年から養成を開始したという。
 トヨさんが自ら書写した教本や講義録などの遺品の中でもっとも古い日付が記されたものが『明治丗三年九月十六日/試験室ノ心得』(1900年、B5版ほどの和綴冊子)である。
 堀江トヨさんの遺品資料の展示を計画している研究者の方たちの事前調査があり、急きょ、遺品の持主のH・Hさんにお返ししたためこの『試験室ノ心得』の詳細について未確認なのだが、赤十字社病院の看護婦生徒募集に応募したトヨさんにとって、これはいわゆるの「受験要項」のようなものではなかったかと思う。
 そしてトミさんは入学後三年間、赤十字社病院看護婦養成課程で学びつつ病院での明番や宵番などを勤めた。1903(明治36)年10月15日に病院長より「看護婦證書」が授与され、翌16日付で「日本赤十字社準備看護婦ヲ命ス」という辞令を受けている。その翌年の1月16日には東京府知事より「看護婦免状」を付与され、看護婦としての活動を本格的に始めたようだ。

 

 ところで、なぜ堀江トヨさんが日本赤十字社病院の看護婦生徒募集に応募したか、である。トヨさんは当時の女性として高度の教育を受け、広い視野と種々の情報を得ることができる家庭環境にあったのだろうと思う。また、母親の堀江フデさんが1899(明治32)年5月15日に47歳で亡くなっており、それが看護医療への道に進むきっかけになったのかも知れない。

 

 赤十字社は、スイス人の実業家アンリー・デュナンの「戦場の負傷者と病人は敵味方の差別なく救護する」という考えから設立に至った国際組織である。デュナンに敬意をはらい彼の母国スイスの国旗から「赤十字」をシンボルとし組織名にしたとされる(現在では「赤新月社」などもある)。日本では、1877(明治10)年2月の西南戦争の折に多数の死傷者が出て、その悲惨な状況を目にした佐野常民(1823〜1902年、佐賀藩出身、明治の政治家)によって赤十字社と同じような「博愛社」が創立され、1886(明治19)年に日本のジュネーブ条約加入によって、その名称を変えて日本赤十字社が発足している。
 こうしたことで、もともと日本赤十字社は戦時救護を目的に設立された組織だったが、1888(明治21)年7月の磐梯山噴火、1891(明治24)年10月の濃尾大地震などを契機に災害救護も行うようになって今日に至っている。

 

 堀江トヨさんは、町田地方史研究会編『町田歴史人物事典』(小島史料館、2005年)によると「明治36年赤十字社第二救護班に編入され、翌37年5月、日露戦争勃発とともに広島陸軍病院勤務。この頃弟の重治が出征。同年11月、宇品と大連を結ぶ病院船博愛丸に転乗。日露戦争が激しくなるにつれて、傷病兵の数も増し、堀江は患者一人一人の看護と激励に情熱を燃やしていった。こうして、宇品・大連間を11か月に40数回往復した(以下略)」という。

 

 再び日本赤十字社のホームページを見ると

 

 日露戦争は1904(明治37)年2月に勃発し、約1年9ヶ月の間に多くの傷病者を出ました。日本赤十字社はこの間に152の救護班、約5,170人の救護員を満州や朝鮮などの戦地、大陸と日本を往復する病院船、また国内の軍病院などに派遣しました。
 日本赤十字社の救護活動は、日本兵だけにとどまらず、ロシアの傷病兵や俘虜(捕虜)に対しても同様に行われました。

 

 とあり、これには治療中の負傷ロシア人捕虜や愛媛県の松山俘虜収容所で義足を手にする捕虜の写真が添えられていた。トヨさんは博愛丸で敵味方の差別なく傷病兵の救護にあたっていたのだ。(つづく)



2020.04.20 Monday 12:31
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最古のお釈迦さまの伝記

 並川孝儀著『書物誕生―あたらしい古典入門《スッタニパータ》―仏教最古の世界』(岩波書店、2008年)の第8章 第1節「最古層資料にみるゴータマ・ブッダの生涯」(172頁)によれば、

 

 第4章・第5章で生涯に関する記述といえば、サーリプッタ長老が語ったとされる、つぎの二つの偈だけであろう。

 

私は今まで見たこともなければ、誰からも聞いたこともない、このようにみごとに説法される師が、〔弟子や信者などの〕集団の担い手としてトゥシタ天からやって来られ、(955)


〔真実を見る〕眼をもつ人が、神々も存在する〔この〕世界に現れ、一切の暗黒を取り除いて、ただ独り法楽を体得された。(956)

 

 ここには、トゥシタ(兜率:とそつ)天から弟子集団の担い手である師がこの世に生まれ、すべての妨げを取り去り、悟りを得たという内容が説かれる。ただし、主語は師(サッタル)と(真実を見る)眼をもつ(チャックマント)であって、ブッダという呼称で表記はされていない。

 

 と解説されている。

 当然のことながら、最初期の伝承にはお釈迦さまを「ブッダ」とは呼称していなかったようだ。

 この955偈と956偈の並川孝儀氏の訳と中村元先生の訳を比較して読んでみてほしい。

 



2020.04.14 Tuesday 10:44
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梅花講員の皆さんと降誕会法要を勤めました

 

 昨日、ご無理のないように事前に連絡網を使ってお知らせし、ご出席の講員さんにはお互いに間隔を広く空けて坐り、まず「般若心経」を読誦し、三宝御和讃、釈尊花祭御和讃、花祭御詠歌をお唱えし、その後、住職が最古層の仏典『スッタニパータ』に伝えられている原初の「釈尊伝」や道元禅師『永平広録』中の「周行七歩」「天上天下唯我独尊」などによってお花まつりに関わるお話しをしました。以下に「レジュメ」を掲げます。

 

お釈迦さまの「釈迦」について

 

サンスクリット語やパーリ語の「シャーキヤ」の音写。仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ(釈尊)の属していた種族の名。
釈迦牟尼の略称。紀元前463〜383年頃。一説に紀元前566〜486年頃、南方伝承では紀元前624〜544年頃。姓をゴータマ(瞿曇)、名をシッダールタ(悉達多)という。「釈迦」とは「釈迦牟尼」の略称で、釈迦族出身の聖者を意味し、「釈尊」はその異称。いまは「ゴータマ・ブッダ」または「ブッダ(仏・仏陀)」と呼ぶことが多い。釈迦は、釈迦族の中心地であるカピラヴァスツで父をシュッドーダナ(浄飯)、母はマーヤー(摩耶)といい、その長子として生まれた。カピラヴァスツは現在のネパールの南辺からインドの国境付近のタラーイ盆地にあり、その近くにあるルンビニー園が誕生地である。誕生日は4月8日(一説には2月8日)とする。(後略)【参考  岩波仏教辞典】

 

お花まつりについて

 

お釈迦さまの誕生日を祝って「花まつり」というようになったのは、そう古いことではない。
明治時代末に、近代日本の仏教界の指導的人物・教育者であった渡辺海旭師(明治5〜昭和8年、浄土宗僧侶、東洋・大正大学の教授)がドイツ留学時にイースター(復活祭=春分の日後の満月直後の日曜日に行われるキリストの復活を記念して行う春の祭事)が盛大に行われるのを目の当たりにして帰国。日本でもお釈迦さまの誕生日を楽しくお祝いしたいと考え、「花まつり」という美しい名称を考案、それが宗派を超えて全国にひろまったとされている。

 


「スッタニパータ」の中のお釈迦さまの最古の伝記(中村 元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、1984年)

 

「スッタニパータ」の中でも最も古い伝承とされる伝記

955 サーリプッタさんが言った、   わたくしは未だ見たこともなく、また誰から聞いたこともない。   このようにことば美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。

 

956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。

 

古い伝承とされる伝記

683  (神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、   シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。

 

684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、やがて〈仙人(のあつまる所)〉という名の林で(法)輪を回転するであろう。   猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」

 

1002 もしもかれが、〈転輪王〉として家にとどまるならば、この大地を征服するであろう。刑罰によらず、武器によらず、法によって統治する。

 

1003 またもしもかれが家から出て家なきに入れば、蔽いを開いて、無上なる〈目ざめた人〉(ブッダ)、尊敬さるべき人となる。

 

以上の他にスッタニパータに伝えられている伝記

685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のようにいった、
 「王子はどこにいますか。わたくしもまた会いたい。」

 

686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を、アシタという(仙人)に見せた。   溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき幸福に光り輝く尊い児を。

 

690 相好と呪文(ヴェーダ)に通暁しているかれは、シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、(特相を)検べたが、心に歓喜して声を挙げた。   「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」

 

991 「むかしカピラヴァットゥの都から出て行った世界の指導者(ブッダ)がおられます。かれは甘蔗王の後裔であり、シャカ族の子で、世を照す。

 

992  バラモンよ。かれは実に目ざめた人(ブッダ)であり、あらゆるものの極致に達し、一切の神通と力とを得、あらゆるものを見通す眼をもっている。あらゆるものの消滅に達し、煩いをなくして解脱しておられます。

 


道元禅師の法語(永平広録)

 

75 仏生日の上堂。尽界、多時にして天暁けなんと欲。乾坤、今日採光彰わる。周行七歩して全力を費やす。未だ傍観の笑い一場を免れず。

 

177 大仏寺を改めて永平寺と称する上堂。《寛元4年丙午6月15日》
(前略)世尊降生して、一手は天を指し、一手は地を指し、周行七歩して云く、「天上天下唯我独尊」と。世尊道えることあり、これ恁麼なりといえども、永平道うことあり、大家、証明すべし。良久して云く、天上天下当処永平。



2020.04.08 Wednesday 16:29
東雲寺あれこれ comments(0)
お花まつりーお釈迦さまのお誕生日

4月8日、お花まつり

昨日午後1時から、ご近所のYさん、Mさん、Mさん、Hさんが来山、花々を飾り付けてくださった花御堂を

今朝、本堂正面に移し奉安いたしました。



2020.04.08 Wednesday 10:01
東雲寺あれこれ comments(0)
タケノコが採れました

 

東雲寺の境内で毎年一番早くタケノコが出て来るところから2本頭を出しました。

タケノコを使った散らし寿司とワカメとタケノコのお味噌汁をいただきました。



2020.04.04 Saturday 21:29
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4月4日の朝の桜



2020.04.04 Saturday 11:53
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シャクナゲが咲いています

 

2020年4月3日(金)朝7時40分ころの境内の桜です。



2020.04.03 Friday 08:37
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2020年4月2日17時30分、斜陽の中の桜

 

3月1日〜9月30日の間、東雲寺では17時30分に暮れの鐘を9声撞いています。

鐘を撞き終えて鐘楼堂の石段をを降りようとして振り返ると、夕陽に照らされた桜がそこにありました。

本日は朝、昼、夕刻の桜をお届けしました。



2020.04.02 Thursday 22:28
住職雑感 comments(0)
4月2日(木)11時15分ころの桜

庫裡の屋上や二階のベランダの排水用の穴に桜の花吹雪が詰まってしまうため、時々見回りをして必要に応じ掃除をしていますが、ふと顔を上げると、満開の境内の桜が目に入って来ました。



2020.04.02 Thursday 13:06
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